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すみびすみ
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novelistID. 17622
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長い話

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前触れなく目が覚めて、驚いたような心持ちで二、三まばたきをした。見えるものは暗闇しかなく、広いかも狭いかもよくわからない空間の中には冷たい静寂が満ちている。自分がいまどの方向を向いて横たわっているのか、ここがどこなのか、自分がなんであったかすらも、一瞬のあいだだが、思い出せなかった。
 少しだけ前を見つめ続けるだけで目はすぐに光をとらえはじめる。薄い灰色に染められて、この狭い部屋にただ一つの窓に掛けられた、無地のカーテンがぼんやりと見えた。何時かはわからないがいまは真夜中で、もう数時間後には起き出して勤め先の工場へ働きに行かなければならない。自分が寝ているこの場所は勤め先から借りた寮の古ぼけた一室、その床に敷かれた布団の中。しかもひとりで使っているものではない、この瞬間からよみがえってきた窮屈さは背のうしろにもうひとり寝ている男によるものだ。自分のおかれた状況のつぎにアキラは、共に寝て起きて働いて、もう一日の大部分をふたりで暮らすようになったこの幼馴染の存在を思い出した。寝る前にはさんざん気遣うそぶりを見せたくせに今かなりの面積を占領している彼へ、思わず眉をひそめる。もともとひとり用につくられたこの部屋に住まう生活は何もかもが半分だ。布団ひとつにしたって二人分を揃える金銭的余裕がなく、とりあえず寝床があればそれでいいだろうという心持ちで共用し始め、そのまま一年すこし過ごしてしまった。いつかは買い足すつもりだったが、いい加減に慣れてきて特に不便もないので、このままにしておいたほうが無駄もなくていいのではないかと思っている。
 幼馴染はこちらを向いて寝ている。見てはいないがなんとなくそうなのだろうとわかった。耳をすまして吐息を聞いたわけではない、ただ確実な気配が、背後にあった。その事実を認識してアキラの頭は落ち着いた。背中で感じる幼馴染の様子は実に静かであるようだった。苦しい呻き声も、荒い息遣いもない。痛みに耐えかねて寝床を飛び出すこともない。ふたり暮らしを始めてまだ日の浅いこの彼が、穏やかな眠りを得てたしかにそこに生きている、そのことが、アキラに安堵をもたらした。きょうの彼はもうどこにも行ってしまうことはなく、朝からもきっと元気な表情で起き出して働いてまた眠りにつくだろう。まだ違和感がありすぎて慣れないが、いまの自分にとって心から「いつも」になってほしい光景が、そこにあった。
 向きを変えて幼馴染の表情と様子と存在をたしかめることは、しかし、できない。
 頭は平静を得ていたが、同時に心の中はぐるぐると渦のようなのであった。だれかのごく近くで生きることが、日常のものとなることを考えた。基本的にひとりで暮らす時間の方が多かった自分が、金がない、ただそれだけの理由で、だれか他人を近くに寄せて眠り、あまつさえその状況に慣れてしまっている事実を考えた。改めて思い出すと、この現状はちょっとした衝撃をアキラに与えるのである。これまでもふと思考に乗せては不思議な感触をおぼえていたことではあった。だが考えるたびに、こうして深く意識しないと気づかないことが多くなっている自分自身に危機感を抱き、それなのに頭ほどには身体の感覚は焦っていないことに気づき、さらに穏やかでない心持ちになって、自分の感情がよくわからないまま有耶無耶になる、そんな繰り返しを何度も何度もしていた。
 深い眠りから不意に浮かび上がった直後だったためなかなか再び眠りにつくことがかなわず、アキラは居心地の悪い感覚から逃れられずにひとり眉を寄せた。ふと耳をすますと外から一定のリズムで響く金属的な音が聞こえたが、あまりに遠くかすかで、清く高い音色のそれに神経を集中しようと努めてみてもよけいに眠気が引いていくだけなのだった。
 静かな空間の中で研ぎ澄ませた感覚の、根元からするりと滑り込むように、より近くて規則正しいなにかが聞こえてきて、それが後ろの男の寝息だと気づくには若干の躊躇があった。あわてて意識をそらそうとするが、いったん気をとられてしまうともう聞かずにおくわけにはいかなかった。姿は見えず向き合うこともかなわず、聴覚の占める部分だけがじわじわと広がっていくように感じられ、このまま狭い寝床の中にじっとしていることにどうしても耐えきれなくなって、頭にかかったもやを振り払うように起き上がった。
 少しばかり勢いよく布団を剥いでしまったため起こしてしまったのではないかと思い、隣を見たが、幼馴染は身動きひとつせず実に安寧に眠ったままだった。夜のあいだ部屋じゅうに満ちたつめたい空気が頭を冷まし、目をさらに冴えさせる。いくらか落ち着いた心持ちでアキラは幼馴染を見た。思った通り、彼はこちら側を向いて横になっているのだった。暗い闇のなかなので表情を知ることはできない。しかし彼の様子を見つめるアキラの眼差しは穏やかなものだった。ただなんとなく感じられる気配が、今日のところは心配することはないと、そう伝えていた。
「……」
 ずっとこのままであったら、不意にそう考えた。起きている時の彼はときどき辛そうな表情をする。己の身の内に抱えているものを隠しきれず、しかし必死に隠し通そうとして漏らす無理な作り笑い。アキラはそれを見ることが嫌いだった。その表情を生み出しているものがなんなのか、おぼろげに想像はつくが、すべてを推し量ることはかなわず、いつになく知りたいと思うのに、彼はその心のうちをみな自分の方へ引き寄せて、決して明かそうとしない。わかりそうでわからない、そんな瞬間に、澱んだ空気が身体の奥底に溜まる。アキラはこの気持ち悪さを晴らす方法を考えたことがなかった。どうして以前までそう大して気に留めずとも済んできたことに、これだけ苛立つのか、考えるとどうしてもひどい記憶が蘇るので、できるならやりたくなかった。
 このように一緒に暮らしていても心が穏やかでなくなるのなら、いっそこのまま目を覚ましてくれない方が自分も安らかでいられるような気がしたのだ。何も隠さず抱えずに寝顔をさらし、かつ静かに逃げずに傍にいる、いまの幼馴染には、アキラが案じて考えるべき要素がひとつもない。彼が自分に対して思っていること、その全てを受け止めるために思い悩まずともよくなるのなら、これほど楽なことはなかった。
 遠くの音と、彼の寝息が、決められた間隔でよどみなく響き、アキラはもうこのまま動きたくなかった。立ち上がろうとも、寝床に戻りたいとも思わなかった。流れることをいっさいやめた、つめたい空気に上半身を冷ましながら、ものを言わずたしかに生きている、幼いころからずっと近くにいたこの男を傍において、眠ることなく座っていたかった。
 彼が寝返りの一つでもうつだけで、いや、かすかな身動きだけでも、アキラの心の平静は壊されるだろう。
 なので、小さな金属音に耳を沈めて思考を停滞させていたアキラは、そのなかにわずかな音が混じったことにはじめ気づくことができなかった。いや、それが自分を呼ぶ意志をもった声であると、ほんとうは知っていたが、耳とそこからつながる神経がそれを聞き取ることを拒否した。それでも繰り返し聞こえてくる声が、これは現実なのだと、容赦なく訴えかける。
「アキラ」
作品名:長い話 作家名:すみびすみ