長い話
闇のなかにぽつりと発せられた声が、ある種の高揚を孕んだものでも、熱病のような悪夢に苛まれたものでもないことに、胸をなでおろす。起きていたのかと問う前にまず名前を呼んで存在を確かめることはもうこの幼馴染の癖といってもよかった。前から馴染み過ぎて気づかなかったが、彼が自分のことを呼ぶ際には時と場面によってさまざまな意味が込められる。音の綴りとしてはまったく同様な自分の名前に、それぞれ感情が付加されていることを知ったのは、そしてそれらをなんとなく読み取れるようになってきたのは、ごく最近のことである。
「アキラ、どうしたの、眠れないの」
黙っていると布団のなかから尋ねられて、焦った気分に襲われる。声色はしずかであるのに、そこには推し量るのがためらわれる色々の感情が沈められている気がして、この先を聞いたらさらに落ち着かなくなりそうだった。
「…ケイスケ」
流れを止めるように、自分から彼を呼ぶ。言い慣れたはずの一言がなぜか喉につっかえた。なんでもない、そのまま寝ていろと言いたかったのに、名前を口にするだけでひどく力を消費した。続けようとしたことばのかわりにケイスケはすこし息を乱して、体に半分掛かった布団をゆっくり、剥がし始めた。
幼馴染の起き上ろうとする動作をとっさに止めようとして、同時になぜ自分が彼の動きひとつひとつにこうまで恐れを抱くのかわからなくなり、戸惑っているうちにケイスケはごそごそと身を起こしてきた。こちらをきょとんと見てくる目の高さが横一線に合わせられ、ますます居心地が悪くなる。自分を案じてためらいなく注がれる視線に向けて、いましがたぼんやりと考えていたことをそのまま伝えることは、できそうになかった。
「悪い、起こしたか」
「ううん、なんとなく目が覚めただけ。アキラこそ何かあったの、悪い夢でも見た?」
いつも夜中に起き出す時とは、言うことと立場とがまったく逆なので、アキラの内のもやもやとした心持ちはまた重さを増すのだった。自分がさっきまで、いや、夜が来るたびにどれだけ、隣の彼のことについて考えるのに労力を費やしていたか、幼馴染は知る由もないらしい。いまの感情を的確にあらわすことばを探すこともまた、アキラにとってたいへん不慣れで大掛かりなことであった。明日の仕事のことを考えてつい疲労を避けようとしたアキラは、詳しい説明をはなから放棄して眠り直すことにする。
「何でもない、少しぼうっとしてただけだ。もう寝る」
言って、布団の半分を半ば無理矢理に手繰り寄せ、背を向けて横になる。背後の幼馴染は戸惑うように短く声をあげて、何事か言おうとしたようだったが、飲み込むようにして黙った。
そのまま、すこしの間動きが止まる。
「…早く寝ろよ、寒いだろ」
「え、あっ、ごめん」
あわてて布団を戻し寝なおした幼馴染は、アキラの後ろでもう何もいわなかった。きっと何か言いたいことがあって、素直に寝床へ戻りたくない理由があったはずなのに、それらを押し隠してアキラのことばに従った彼が、すぐに自分を眠りへ沈められるわけがないことはわかっていた。知っていてなお背を向けた。一年あまり同じ寝床に寝ていて、アキラもいちおう一度も意識しないわけはない。じっさい共に暮らすようになる以前、長年の想いを打ち明けてきた直後の彼とそういう事態に陥ったことはあった。彼はそれ以来、この土地での平穏な暮らしを手に入れてから、一切アキラを求めることばを口にしてこない。
幼馴染なりに何がしかの遠慮があるのだろうとは思ったが、アキラも、想いを抱えて押し黙る彼の、その先を問い質すことがどうしてもできなかった。一度体を重ねたときとその少し前に知ってしまった、彼の心のうちが、アキラにとってはあまりに大きく重くて、過去に味わったその感触を思い出すだけで身構えてしまうのである。自分が生きることに意味を見いだせず日々無気力にひとり暮らしていたすぐ傍で、長い期間感情を隠してきた彼の、すべてを手放しで受け入れるには、アキラのこれまでの人生はあまりにも他人への頓着を欠きすぎていた。
「……」
知っているからこそ、背後の幼馴染が確実なる想いと体温をもってそこにいることを知っているからこそ、なお落ち着いた眠りに身を落とすことも、やはりできそうになかった。結局のところアキラは横たえた体をふたたび起こして幼馴染へ向くのであった。
案の定ケイスケはまるくした目をこちらへ向ける。その瞳のうちに驚き以外の感情がいくらか混じっていないか、意識せぬまま探ろうとしたが、暗くてよく見えなかった。アキラに合わせて布団から出ながら、おろおろと、やっぱり何か悪いことがあったんじゃないか、どこか痛いのか、などとたずねるので、アキラはつい握った手の甲でケイスケの顔面をはたいた。
「いてっ!」
運悪く直撃してしまったらしい鼻を押さえて痛がる幼馴染を見てももやもやとした心は晴れなかった。このところアキラはよく幼馴染を殴る。ふたりで一緒に暮らすようになってから、彼の言動のささいな部分、とくに自分へ向けられたそれに対し、体のうちの胸から腹にかけてのところで重いなにかが溜まるような感覚に襲われることが多かった。その苦しさ、息の詰まるような感触をうまくことばに表せず、また晴らす方法もみつからなくて、おそらくの原因であるところのケイスケに、とりあえず手が出る。そうしてみても気持ちは何ら落ち着かないというのに、むしろ申し訳なさそうな顔をするケイスケを見て余計に苛々が募るということをわかっていて、アキラは殴ることしかできない。散々ひとのことを心配するくせに自分自身がいちばん危なっかしいこの幼馴染に、なんとことばをかければいいのか、わからない。
「ちょ、アキラ、これはひどすぎ」
「うるさい」
次にはこのことばが出る。何度繰り返して見ても代わり映えのしないやりとりにアキラの苛立ちはますます募った。心はもっとほかのことを言おうとしているのに、またお決まりの路線に戻ってきてしまったことにひどく落胆した。もはや腹立たしさの対象が自分であるのか、こういう反応を自分に引き起こす彼なのか、わからなかった。
「…お前」
「えっ」
もっと何か言おうとしていたことがあったんじゃないのか、目を覚ました理由があったんじゃないのか、そう問おうとして、やめた。本当のことを聞くことはやはりためらわれた。問うて、答えを聞いて、そして自分に何かできるだろうか。目前の彼がその身のうちに湛える深淵を垣間見て、そのすべてを受け止める気力すらもたない、この自分に。
過ぎ去ったあの数日間から強く生じ続けている感情の波が、闇の中でふたたび重く身にのしかかってきて、動くことができない。逃げることもしたくはなく、しかし先へ進む道行きも暗すぎて、どちらにも進めなかった。勢いに任せて身を起こした姿勢のまま声も出さず、アキラは停止する。やはり動けずことばを発せずにいる幼馴染を、網膜はうっすらと映し続けたが、思考は深く深く、感覚とのつながりを断ち切った水底へ沈められた。