長い話
「声が聞こえるんだ。俺が殺した人たちの声。何を言ってるかは聞こえないけど、俺のことすごく憎んでて、悲しくて、足が止まる。耳をふさぎたいけどふさげない。腕も、足も、そこらじゅうから掴まれて、動けないんだ。そのうち体中が痛くなってくる。俺が今まで殺した人のぶん、ぜんぶ、切られて、裂けて、潰されて、血がどんどん流れていって、死にそうになる、けど、死ねない」
名を呼び、彼に向かって動き出そうとした。何をしたかったのかはわからないが、とにかく何か、働きかけるなにかを、彼にしたくなって、しかし必死にこらえた。自分が彼に少しでも触れた、その瞬間に、彼のことばは止まる。そして二度と彼はその続きを聞かせてはくれないだろう。これまでのように、薄い笑みに心を隠して、見せてはくれないだろう。アキラは彼のことばを聞かなければならなかった。小さく、かすかに、紡がれ続けるそれを、切らせることなく繋がなければならなかった。
「しまいにはたくさんの手が引きずり込んでくるんだ。地面がいつの間にか沼みたいになってて、身動きがどんどんとれなくなっていって、痛くてそれどころじゃなくって、もう何もしたくなくなる。あきらめてこのまま沈んでしまいたくなる。もがいたって苦しいだけだし、何も見えないし、もういいや、そう思った瞬間に、必ず、アキラのことを思い出す」
声を出そうとした喉が痛かった。この短いあいだにひどく乾燥して、引き攣れたようだった。
「ああ、アキラはどうしてるかなって、痛くて仕方がないのに変なんだけど、そこだけ呑気に考えて、すごく、帰りたいなって思うんだ。このままだともうアキラに二度と会えなくなるんだって、そう考えたら、抜けだそうって気になって、もがく。前に進んでるのかどうかもよくわからないけど、必死に手足を動かして、じたばたして、その間じゅうずっとずっとアキラのことばっかり考えて」
「…」
「そうしたらだんだん遠くに光が見えてきて、それに向かって少しずつ進んでいって、ああ、やっと抜けたっていうところで、起きる」
苦しく絞り出すようなことばからやっと抜けた彼は、終わりにひとつ、息をつく。顔を上げて、視線を、またアキラに向けた。
「その繰り返しが、毎日」
言った瞬間に、窓の外からさっと、光が降る。さっきまで重く厚く漂っていた夜の雲が、一瞬途切れて、月が現れたのだった。急に明るさをました狭い部屋の中、照らされた彼の表情によどむものはいま一切取り払われていた。しずかなこの空気の中に最上の喜びを得ているようなその顔に、また、胸の内がもやもやとする。
「…ケイスケ」
思わず口にしたその名はかすれてうまく発することができなかった。どうにもじっとしていられない、衝動のような心持ちを解決する方法がいまのアキラには見当たらなかった。名前ひとつ呼ぶだけで、こうも心が揺らぐのかと、こうも力がいるのかと、不思議だった。
ケイスケはふだん、なんどこの思いを味わっているのだろうか。
落ち着かない心のまま、振り上げた手が、ケイスケを殴る構えだったので、アキラは慌てた。ことばで晴らせない感情のよどみが溜まった時にいつもしているやり方が、無意識に出てしまっていたことに気づき、手を止めて、至極不自然な体勢のまま固まった。そこから何事もなかったようにおさめることもできず、どうすればいいのかしばし逡巡したのち、アキラはもっとも順当な流れのままに掌を再び運びはじめることにした。ケイスケに向かっていくそれは、拳を作らず、鼻先にも当てられず、ゆっくりと、上に向かっていく。
そのままそっと、頭にのせた。
撫でるというよりは髪をつかむような形で、不器用に安定する。ふいにアキラからの反応を得たケイスケは、一瞬驚いて目をまるくしたが、次にはもう顔をくしゃりと崩して、幸せそうに笑った。寄せられた眉が、困っているというよりは、泣きそうな顔のそれに見えて、アキラはますます胸の内がぐるぐるとする。自分の心も知らず呑気に笑う彼のその顔が腹立たしいような気持ちになって、つかんだ髪をわしゃわしゃと乱した。
やめろよ、と笑い混じりにいう彼の手がそれに重ねられたがアキラはもう振りほどこうとはみじんも思わなかった。ただ彼の頭の上で手を動かし続ける音と、笑い声が、延々と続く。
月の光は途切れることなく部屋に降り注ぎつづけた。