たそがれ泣き
『たそがれ泣き』
自分の張り上げた声が体内に反響して気持ちが悪い。それでも止まらない叫びも、生ぬるく頬をぬらす涙も、すべて不快であるにもかかわらず、横隔膜は涙に乱され、呼吸を妨げる動きを止めない。
どれだけこうしていただろうか。いつも静かなはずの林が、今日は強い風に揺られ、増幅しあっている。ざわめく梢たちは自分を慰めてはくれず、不安を煽って小さな体が押しつぶされそうだ。
「菊、ここにいたあるか」
鼓膜までしっかりと響いた声と、ぼやけた視界に入ってきた、たおやかな立ち姿に胸がじんわり熱くなる。泣き声の高さのままで彼の名前を呼んだ。
「あにうえ」
自分に笑い掛けた男をそう呼んで、膝に飛びつく。あまりの勢いと自分の顔のひどい有様に笑い声が被さってくる。
彼は自分の水分と塩分でぐしゃぐしゃになった顔を大きな掌で覆った。彼の衣服は少し土や落ち葉で汚れていて、それだけで彼が今まで何をしてきたのかに気づいてしまい、名前のつかない感情で内臓が苦しめられた。
「菊はたまにこんな風に泣くから、びっくりするあるよ」
普段はとてもおとなしいのに、と呟く彼の声に頬が熱くなる。
他の兄弟に比べて彼に向かった感情の爆発は極力抑えるように、日常から試みている。寛容である兄に、教えは請うことはあっても、甘えの海の中には飛び込みたくはなかった。どこまでも自分が貪欲に彼に縋ってしまうことを恐れていたからだ。しかし自分が兄と慕う人物は、子供のちっぽけなプライドを意も介さず、屈んで背を差し出す。
それに逆らうこともなく体重を全て彼の背にゆだねると、やすやすと彼は自分を担ぎ上げる。
「すみません、あにうえ」
背負われたままで、謝意を述べる。それが自らの体面を守ることではなく、優しすぎる兄に対しての償いであったのだが、それさえも笑みでないことにされてしまった。
「我は嬉しいあるよ」
どうして人が泣いているのを見て嬉しいと思えるのだろう。兄の言葉にひとつの疑問を持つが、すでにさまよい続けたための足の疲れと、流した涙のおかげで体力を削られている。瞬きのためまぶたを閉じると、どんどん重さを増していく。
自分の恐怖をあんなに煽った森のざわめきは、服越しで伝わる兄の鼓動に消されてしまう。
自らの重さを諸共せず、歩む兄の足取りは力強い。どんなうっそうとした森でも、岩が足止めをする荒野でも、広大すぎる平原でも歩み続け、民に豊穣と知をもたらす。
私もいつかそんな国になりたい。菊の想いはまだ小さく、希望とも呼べないものだ。それよりもあまりに、背中の温度が暖かくて、そのまま眠りに落ちていってしまった。
うつむいて涙をポロポロと流す。ドロップスのような涙だとぼんやりととらえていた。
舐めてもきっと甘くはないだろう。普通の人間でもそう、だ。作りはどうあれ人間と同じにできている。殴られれば痛いし、悲しみも過ぎれば涙を流す。
血は赤いし、度が過ぎれば、きっと死だって遠いものではない。
その滴が彼の黒いスーツを汚さぬように、懐からアイリスの散るハンカチーフを彼に差し出した。しかしちっとも泣く男はそれを受け取る気配を見せず、声もなく肩を震わせていた。出された茶はとうに冷め切っているし、座布団もひかない畳の上に座り込んだ彼は、背を丸めてただただ涙を流す。
掌でふたをしても、皮膚は水分でぐしゃぐしゃに乱されていくだけなのに、その小さな抵抗を彼は止めない。
半ば強引にその指を取って、はがそうとする。その本田の行動と力強さに驚いたアーサーは、一瞬だけ涙の色に染まった瞳を本田に向ける。
交差した二人の手の下から白い頬が覗く。やはり塩分と水分に濡れていた。皮膚の弱い彼のことだから、流しすぎた涙のせいで翌日の顔はひどいことになってしまうだろう。
瞼を腫れさせてかすれた声で他国に対し何でもねえよ、と強がる彼の姿は、見ていて胸を締め付けられることではなく、むしろくすぐったい心持が支配する。
そのくすぐったさのまま、ハンカチを彼の濡れた頬に当てる。この花柄のハンカチだって、本来は彼からの贈り物であるのに、こうした役目にあてがう。平素の彼ならそれに気の利いた皮肉でも返すことだろうが、今はその余地を奪われるほど感情の揺らめきが体中に行き渡っている。
「やめろよ、本田」
子供のように涙を拭われて、ようやく彼の瞳に本来の平静さがわずかに戻る。綿の布地が健気に彼の頬をぬらす涙を吸い取り続けていた。
「おい、笑うなよ」
急に彼が諫める言葉を吐いたものだから、反射的にデフォルトの謝罪の言葉が口をつきそうになる。
「いや、お前にじゃねえよ」
アーサーは流す涙は収まらないものの、その部分だけははっきり言葉にして本田に伝えた。先ほどからひらひら右手を振っていたのは、舞う妖精たちを軽く牽制してのことだったのか。本田の目には決して映ることはないが、おそらく絵本で見たとおり、華やかで柔らかいものなんだろう。
彼の喜怒哀楽を眺める周りのさわがしさを彼は愛し、そして愛されている。
幻想を形として視覚に映す彼の目には、どのようにこの世界は映っているのか。今は涙に濡れた緑の瞳をわずかに覗き込んだ。
金色の睫毛に彩られた異国の瞳。出会った頃は物珍しさと照れくささでじっと見つめることもかなわなかった。
「見えないところで泣いて、情けないって思ってるだろ?」
皮肉と自虐も混じる、彼らしい言葉が漏れて本田は思わず息のリズムを乱した。
これもひょっとしたら付き回る妖精たちに向けてのものだったのかもしれないが、本田はあえてしっかりとした口調でアーサーに返す。
「そんなことは思いません。私、あなたが泣き虫だと知っていますから」
意地悪く笑えば、負けず嫌いな彼は必ず言い返してくると知っているから、本田はわざと言葉を弄して反応を待つ。その隙に妙な形で座り込んでしまったためにできたジャケットのしわを伸ばしてやる。
彼に縁近い者ほど、こうした対処方法が有効だと知っていた。
忌憚なくよく泣いて、周りを騒がせる。憎まれる以上の愛しさを有し、しかしめぐりまわる因縁から彼が本物の憎悪にさらされていることもよく知っていた。暴虐も苛烈さも、向かうものに対しては一切の余分な感情を切り捨てることにひどく長けていることも、知っている。
知っている。
案の定、濡れた頬を赤くして、いくつか言葉を濁らせ叫び、否定と照れにまみれた言葉を止まることなくいくつもぶつけてくる。取るに足らない言葉の破片を、ワイシャツの胸でそれを全て受け取って、きちんと一つ一つを自らの言語中枢と胸に染み渡らせた。
「あなたがそんな心を私に見せてくれて、うれしいくらいです」
この一言は、還元されるのは彼だけではなく、自らの内であると本田は知っている。
長く国として生きているうちに、たいていのルールもよくあるケースも知るようになってしまった。
普段よりいっそう微笑んで、安堵の空気を作り出そうと試みる。同時に、泣くうちに乱れてしまった彼の首もとのネクタイを直した。
泣くことも笑うことも。
自分の張り上げた声が体内に反響して気持ちが悪い。それでも止まらない叫びも、生ぬるく頬をぬらす涙も、すべて不快であるにもかかわらず、横隔膜は涙に乱され、呼吸を妨げる動きを止めない。
どれだけこうしていただろうか。いつも静かなはずの林が、今日は強い風に揺られ、増幅しあっている。ざわめく梢たちは自分を慰めてはくれず、不安を煽って小さな体が押しつぶされそうだ。
「菊、ここにいたあるか」
鼓膜までしっかりと響いた声と、ぼやけた視界に入ってきた、たおやかな立ち姿に胸がじんわり熱くなる。泣き声の高さのままで彼の名前を呼んだ。
「あにうえ」
自分に笑い掛けた男をそう呼んで、膝に飛びつく。あまりの勢いと自分の顔のひどい有様に笑い声が被さってくる。
彼は自分の水分と塩分でぐしゃぐしゃになった顔を大きな掌で覆った。彼の衣服は少し土や落ち葉で汚れていて、それだけで彼が今まで何をしてきたのかに気づいてしまい、名前のつかない感情で内臓が苦しめられた。
「菊はたまにこんな風に泣くから、びっくりするあるよ」
普段はとてもおとなしいのに、と呟く彼の声に頬が熱くなる。
他の兄弟に比べて彼に向かった感情の爆発は極力抑えるように、日常から試みている。寛容である兄に、教えは請うことはあっても、甘えの海の中には飛び込みたくはなかった。どこまでも自分が貪欲に彼に縋ってしまうことを恐れていたからだ。しかし自分が兄と慕う人物は、子供のちっぽけなプライドを意も介さず、屈んで背を差し出す。
それに逆らうこともなく体重を全て彼の背にゆだねると、やすやすと彼は自分を担ぎ上げる。
「すみません、あにうえ」
背負われたままで、謝意を述べる。それが自らの体面を守ることではなく、優しすぎる兄に対しての償いであったのだが、それさえも笑みでないことにされてしまった。
「我は嬉しいあるよ」
どうして人が泣いているのを見て嬉しいと思えるのだろう。兄の言葉にひとつの疑問を持つが、すでにさまよい続けたための足の疲れと、流した涙のおかげで体力を削られている。瞬きのためまぶたを閉じると、どんどん重さを増していく。
自分の恐怖をあんなに煽った森のざわめきは、服越しで伝わる兄の鼓動に消されてしまう。
自らの重さを諸共せず、歩む兄の足取りは力強い。どんなうっそうとした森でも、岩が足止めをする荒野でも、広大すぎる平原でも歩み続け、民に豊穣と知をもたらす。
私もいつかそんな国になりたい。菊の想いはまだ小さく、希望とも呼べないものだ。それよりもあまりに、背中の温度が暖かくて、そのまま眠りに落ちていってしまった。
うつむいて涙をポロポロと流す。ドロップスのような涙だとぼんやりととらえていた。
舐めてもきっと甘くはないだろう。普通の人間でもそう、だ。作りはどうあれ人間と同じにできている。殴られれば痛いし、悲しみも過ぎれば涙を流す。
血は赤いし、度が過ぎれば、きっと死だって遠いものではない。
その滴が彼の黒いスーツを汚さぬように、懐からアイリスの散るハンカチーフを彼に差し出した。しかしちっとも泣く男はそれを受け取る気配を見せず、声もなく肩を震わせていた。出された茶はとうに冷め切っているし、座布団もひかない畳の上に座り込んだ彼は、背を丸めてただただ涙を流す。
掌でふたをしても、皮膚は水分でぐしゃぐしゃに乱されていくだけなのに、その小さな抵抗を彼は止めない。
半ば強引にその指を取って、はがそうとする。その本田の行動と力強さに驚いたアーサーは、一瞬だけ涙の色に染まった瞳を本田に向ける。
交差した二人の手の下から白い頬が覗く。やはり塩分と水分に濡れていた。皮膚の弱い彼のことだから、流しすぎた涙のせいで翌日の顔はひどいことになってしまうだろう。
瞼を腫れさせてかすれた声で他国に対し何でもねえよ、と強がる彼の姿は、見ていて胸を締め付けられることではなく、むしろくすぐったい心持が支配する。
そのくすぐったさのまま、ハンカチを彼の濡れた頬に当てる。この花柄のハンカチだって、本来は彼からの贈り物であるのに、こうした役目にあてがう。平素の彼ならそれに気の利いた皮肉でも返すことだろうが、今はその余地を奪われるほど感情の揺らめきが体中に行き渡っている。
「やめろよ、本田」
子供のように涙を拭われて、ようやく彼の瞳に本来の平静さがわずかに戻る。綿の布地が健気に彼の頬をぬらす涙を吸い取り続けていた。
「おい、笑うなよ」
急に彼が諫める言葉を吐いたものだから、反射的にデフォルトの謝罪の言葉が口をつきそうになる。
「いや、お前にじゃねえよ」
アーサーは流す涙は収まらないものの、その部分だけははっきり言葉にして本田に伝えた。先ほどからひらひら右手を振っていたのは、舞う妖精たちを軽く牽制してのことだったのか。本田の目には決して映ることはないが、おそらく絵本で見たとおり、華やかで柔らかいものなんだろう。
彼の喜怒哀楽を眺める周りのさわがしさを彼は愛し、そして愛されている。
幻想を形として視覚に映す彼の目には、どのようにこの世界は映っているのか。今は涙に濡れた緑の瞳をわずかに覗き込んだ。
金色の睫毛に彩られた異国の瞳。出会った頃は物珍しさと照れくささでじっと見つめることもかなわなかった。
「見えないところで泣いて、情けないって思ってるだろ?」
皮肉と自虐も混じる、彼らしい言葉が漏れて本田は思わず息のリズムを乱した。
これもひょっとしたら付き回る妖精たちに向けてのものだったのかもしれないが、本田はあえてしっかりとした口調でアーサーに返す。
「そんなことは思いません。私、あなたが泣き虫だと知っていますから」
意地悪く笑えば、負けず嫌いな彼は必ず言い返してくると知っているから、本田はわざと言葉を弄して反応を待つ。その隙に妙な形で座り込んでしまったためにできたジャケットのしわを伸ばしてやる。
彼に縁近い者ほど、こうした対処方法が有効だと知っていた。
忌憚なくよく泣いて、周りを騒がせる。憎まれる以上の愛しさを有し、しかしめぐりまわる因縁から彼が本物の憎悪にさらされていることもよく知っていた。暴虐も苛烈さも、向かうものに対しては一切の余分な感情を切り捨てることにひどく長けていることも、知っている。
知っている。
案の定、濡れた頬を赤くして、いくつか言葉を濁らせ叫び、否定と照れにまみれた言葉を止まることなくいくつもぶつけてくる。取るに足らない言葉の破片を、ワイシャツの胸でそれを全て受け取って、きちんと一つ一つを自らの言語中枢と胸に染み渡らせた。
「あなたがそんな心を私に見せてくれて、うれしいくらいです」
この一言は、還元されるのは彼だけではなく、自らの内であると本田は知っている。
長く国として生きているうちに、たいていのルールもよくあるケースも知るようになってしまった。
普段よりいっそう微笑んで、安堵の空気を作り出そうと試みる。同時に、泣くうちに乱れてしまった彼の首もとのネクタイを直した。
泣くことも笑うことも。