陽炎
血の繋がらない長兄が逝ったのは、夏も盛りに入ろうかという、やたらと暑い日が続いた頃だった。
葬儀を済ませた後すぐに遺言の発表が行われる予定になっていたため、着替えることも許されないまま亡兄の邸宅へと赴いた。
和風建築の豪邸。そのだだっ広い庭に面した縁側に腰掛けてタバコを咥える。
このくそ暑い時期にダークスーツなんて最悪なもんを着る羽目になったのはひねくれ者だった兄の最期の嫌がらせだったのか。
奥の広間から響く喧騒を遠くに聞きながら、四木は一人くだらないことを考えた。
【陽炎】
遺言の発表の様相は醜態を極めた。
四木の実家は父親の代からそれなりに資産を持つ家柄ではあったが、極道という後ろ暗い家業を継がずに起業した長兄は莫大な資産を築いており
兄弟はそろって兄がまだ病床にあった頃から何とかおこぼれに預かろうと群がっていたのだった。
だというのに、先刻の弁護士の一言で彼らには一銭も渡らないことが判明したのだから騒がしいことこの上ない。
「貴方ひとり妙にお静かだねぇ。何か余裕綽々なわけでもあるんですかい、四木の旦那。」
不意に背後から男の声がして、振り替えるまもなく左に影が差した。
葬儀の後にも拘わらず黒い背広の下に派手な柄シャツを纏ったサングラスの大男がへらへらと胡散臭い笑みを浮かべながら隣りに腰かけた。
下手な親族より見覚えのあるその顔に、四木はうんざりとした表情を見せた。
「特に興味が無いだけですよ。貴方こそ。援護に入らなくていいんですか。」
「そりゃ、私は関係ないからねぇ。姻族はどのみち最初から相続人にはなれないもんで口の出しようもないですよ。」
いかにも傍観を楽しんでいると言う風情で男は笑う。白々しいことこの上ない言い分に四木は心中で眉を潜めた。
男__赤林は妹婿の兄弟だ。兄弟姉妹の配偶者の血族である彼は相続人にはなり得ない人間だが、弟の首根っこをしっかり押さえているという話なので妹夫婦の利益はそのまま彼の利益と言うことになるはずだ。
実質、無関係ではないくせに赤林は前線を義妹に任せて早々に離脱しているようだ。
「あのガキ、話が終わるなり雲隠れしちまいましたよ。」
骨肉相食まんばかりの舌戦が展開される奥の座敷を見やる。
赤林の指摘通り、渦中の火種となった人物の姿はない。
それもそうだろう。ただ、相続人になりそこなった連中の怒りを恐れてではない。その逆だと四木は踏んでいた。
連中が泣こうが喚こうが、妻もすでにない長兄の遺産はほとんど全てが直系卑属に受け継がれることになる。
それが法の前に導き出される動かぬ答えだと確信しているのだ。
「見ず知らずの子どもの動向など関係ありません。」
「そりゃあ、御見それしましたね。今度はアナタにも何某かいくもんだとばっかり___」
赤鬼が昔の火種を掘り返そうと口を開いたところで、妹の甲高い声が赤林を呼びつけた。
何も知らぬような顔をしていながら、さりげなく沈下したはずの争いを刺激してくる。
やはりこの男はろくなものではないと思いながら、それを機に四木も縁側を離れた。
部屋へ戻ってもすることなどない。よく晴れた日でも風があれば木陰は多少涼しかろうと期待して庭へ出た。
無駄に広い日本庭園。良く整えられた造形はしかし、体裁を繕うだけのものでしかなく、故人の趣味嗜好をうかがい知ることは出来ない。
父に諭されて娶った妻を早々に亡くした後、長兄は長らく一人でここに住んでいた。
気難しくて近寄りがたい、人嫌いな男だったと記憶している。最も、良くも悪くも情に流されない彼の性質は兄弟中唯一の養子である四木にとっては都合が良かった。
だからこそ、そんな兄が亡くなる一年前に養子を迎えていた事実を知った時には少なからず驚いた。
身に迫る死期を悟っての人情かとも考えたが、問題の子どもに会った瞬間、その仮説は霧散した。
藤棚の横に設けられた東屋には籐製のベンチが二脚置かれている。そのうちの一脚に寝そべるダークスーツの細い影が見つけ歩み寄る。
「お休みですか、折原さん。」
「やぁ、四木さんだ。」
幅の無い籐椅子の上で器用に寝返りを打ちうつ伏せになった青年は、親しい親せきにでもあったような、一見さわやかな笑顔を向ける。
折原臨也。
彼こそが、四木の兄が晩年に惚れ込み、後継にと望んで迎えた件の養子だった。
「そこ、たまに大きな毛虫が飛んでくるんですがね。」
「ええっ?!」
途端に顔をひきつらせた臨也はものすごい勢いで起き上がり、驚異的柔軟性を披露した。
「藤棚にいる奴が風で流されてくるんですよ。」
「そういうことは最初に教えといてよ。四木さんの意地悪!」
ね、既にくっついてるとかないですよね?などと珍しく必死の形相で訊いてくる。その様子がおかしくて薄い笑みを浮かべた。
「あんなものが怖いだなどと、ずいぶんと軟弱な。もっとも、そうしていれば少しは可愛げがありますか、貴方も。」
一年足らずの間にあの堅物に取り入るなんてとんだ鬼子だと散々罵られているのを聞いていただけに、時折垣間見せる子どもらしい一面は微笑ましく映り、安堵感さえ与える。
もっとも、彼にしてみればそれすらも計算のうちなのかも知れないが。
若くとも容易くは食えそうにないと内心の警戒を確かなものにしつつ、臨也が寝ていたベンチに腰掛けた。
庭木の合間を縫って吹き抜ける風が汗ばんだ肌に心地良い。風の道をこの子どもは知っているようだった。
「やだなぁ、四木さん。」
不意に耳元で声がした。
「それじゃあ、俺が可愛くないみたいじゃないですか。」
くすくすと笑う声色は年相応の爽やかなものだというのに、背後から首筋に絡みついた細い腕のせいで嫌な艶を孕んで響いた。
「離れろ、ガキ。こっちが迷惑だ。」
途端に四木は声を冷たくした。伊達にその筋の職についていないわけではない。それでいて四木は基本的に不要な暴言は差し控える主義を採っていた。いかに暴力が普遍の威力を誇るとはいえ、時代の流れを弁えぬ愚か者ではこの先、生き残れない。
その四木が方針を翻すのはよほど遠慮の要らない場合である時か、その意思表示が本気である時だけだと臨也は知っている。
けれど、今の彼は、それこそ聞き分けの悪い子どものようにしな垂れついて離れない。
「俺との関係がバレると困るって?酷いなぁ。こんなとこ見られたくらいでひっくり返るような布陣はしないって、わかってもらえてると思ってたけど?」
「なら、この程度のことで拗ねるな。信用が欲しければ自重を覚えてから出直してくるんだな。」
にべもなく突き放してみせる。首筋の熱はまだ消えない。物わかりのわるいほうではないはずだ。だからこそ、これまで仕事のパートナーとして重用してきた。それでも、この子どもにしては本当に珍しく食い下がった。
「どうして?別に悪いことなんてしてないじゃない。そりゃあ、シズちゃんを始末できなかったのは最大の失態ではあったけどさ。」
自分の他に唯一存在したもう一人の相続人について思い出したらしい臨也はいっそう不機嫌に表情を歪めた。
実は養子の彼のほかに、兄には非嫡出の子がいた。臨也と同い年の男の子で、彼とは犬猿の仲であるらしい。