狐の婿入り
これは、夢、だろう。俺は今、何かの上に乗っている。流れる空気の渦が頬を撫で、髪が方々へと靡いている。月と瞬く星々が犇めく夜空を常よりも近くに感じ、眼下に捉えるのは木々の群衆だ。濃緑と黒の深みがじわじわと迫って来る得も言われぬ恐怖は何処かへと過ぎ去り、あるのは奇妙な浮遊感だけだ。手に触れた柔らかな何かを手で掴むと、前方で何かが蠢く気配を感じる。はっきりとしない視界でその何かの先を辿ると、それはどうやら白い毛であり、尻尾であり、尾は白い衣の尾?へと繋がっていて、認めた姿は、確かに知っているものだった。
『菊?』
喉が震えたかも、自分では分からない。耳が遠く、前方に居る誰かの声が霞んで届く。掴まれている尻尾に眉を顰めたようだったが、捻った上体の腕を伸ばし、俺の金とも銀とも取れる髪を優しく撫でた。
『起きたのですか。』
少しずつ明瞭になる意識が、しかし再び闇へと沈みこもうと誘う。必死に足掻き、降りようとする瞼を押し上げて見ると、艶やかな黒の合間から、人のものとはまるで違う、獣の白い耳が生えていた。傾げる首の動きに合わせてピクリと反応する様が小動物然としていて愛らしく、和やかな気分になった所で気を抜いた意識が落ちかけている事に気付いた。抵抗を試みるが、1度緩んだ精神は気力を絞っても立て直しが利かない。
『菊・・・・・・』
自分の弱々しい声が聞こえ、見上げた菊の瞳は呆れの色を多分に含み、それを最後に俺は菊に視界を覆われた。
『小童が・・・全く、最後まで私を呼び捨てとは。老体は敬いなさい。』
そう、厳しさを含む言の葉が優しく耳尻に響いた所で、今度こそ完全に、俺の意識は底へと堕ちて行った。
「―――・・・っん、・・・・・・さん、兄さん!」
目を開けると、ドイツでは見掛けない木目の天井と、俺の顔を覗き込む弟のアップが目に飛び込んできた。
「っおわ、ルッツ!」
「全く、何時まで寝てるんだ。女将さんが入り口で困っているだろう。」
盛大に溜息を吐いた弟から視線を反らすと、確かに襖戸を開けた女将が苦笑を洩らして正座していた。
「あっ・・・済みません。」
「お早う御座います。良くお眠りになれましたか?お蒲団を片付けさせて頂きに参りました。」
失礼します、と頭を下げてテキパキと布団を畳み、また来た時と同様に静かに退室して行った。見ると部屋は片付けられており、昨夜に漂っていた夥しい酒気も、綺麗さっぱり無くなっていた。俺は昨日の記憶を振り返り、首を傾げる。
「なぁルッツ、俺、何時から寝てた?」
「知る訳無いだろう。俺の方が早く潰れたんだから。」
苦い顔をして告げる弟はこれ以上己の失態を掘り返されては溜まらない、とばかりに着替えを始めた。眺めながら、もう1度辿って行く。確かに、外へ出た筈だ。畦道を歩き、鼻歌交じりに夜の空気を感じた。そして、そして―――・・・・・・
「ところで兄さん。」
身支度を整えた弟が、未だ寝間着姿の俺に朝から重い溜息を吐いて、目で畳を指示した。正確には、畳に置かれている、俺の右手を。
「それは、何を握っているんだ?」
「あ?」
指摘され自身の右手を見ると、手には白い布。微かに湿り気のあるソレが、俺の霞掛かる思考を一気に繋ぐ。ソレは、確かに昨夜、俺の額を覆っていたものだ。そしてソレを俺の額に宛がったのは、正統な所持者は―――・・・
「き、く―――・・・」
ポツリと漏らした呟きは弟の耳は入らず、怪訝そうに眉根を寄せた弟は俺に「早く着換えろよ。」、と言い置いて部屋を出て行った。1人になった部屋で、改めて白い布―どうやらそれはハンカチらしいが―を広げてみた。すれば漂う、柑橘の香。そしてハンカチの中央には朱色の文字で、『忘れなさい。アレは夢です。』、そう書かれていた。忘れろ、と言われて忘却の彼方へとやる事が出来るのならば苦労はしないだろう。それは即ち、逆に取れ、と言っているのと同義だ。やはりアレは夢では無かったのだ、と記憶に納得して、白磁の様に滑らかに透ける肌、艶めく黒、凛としたテノール、在り得る筈も無い尻尾と獣耳、そして何より、あの黒から小金へと変わる美しき宝玉の如き瞳をしかと思い浮かべた。まさか、この歳になりてこのような体験が待っているとは思えなかったが、兎にも角にも、あまりにも濃すぎる体験は、暫く俺の脳から脱却は図ってくれそうも無かった。一夏の思い出は、一生の想いとして刻まれる程の類稀ない体験と共に、今後の自分の生を大きく変えるなどと露にも思わぬまま、朧げな形をして心に残った。
取り敢えず、惚けそうになる神経を叱咤して、俺は、のろのろと寝間着の合わせに手を掛けた。