狐の婿入り
「加工の施されていない天然ものですから。どうぞ、お入り下さいませ。」
そう言ってスルリと引いて行こうとする相手の腕を今度は逆に掴み引き止めた。
「折角案内して貰ったんだ。一緒に入って行ったらどうだ?」
「いえ、私は・・・・・・」
「お前に居て貰わねぇと戻れねぇだろうがよ。安心しろよ、誰も着替えなんざ覗かねぇから。」
大真面目に告げれば、きょとんとした表情を浮かべて俺を見上げた。丸くなった瞳が零れ落ちそう、などと思いながら、相手が観念するのを待つ。やがて小さな溜息が吐かれたと思うと、「承知致しましたので、離して頂けますか。」と呟いた。
「最初から大人しくそう言ってれば良かったのに。」
ニヤニヤと笑めば、怪訝そうな瞳が突き刺さる。互いに背中合わせになり、入浴の準備に取り掛かった。
やはり風呂とは何度入っても良いものなんだな、と、入浴の習慣がある日本の良き文化をしみじみと体感した。濁る湯がすっぽりと身体を隠し、少し距離を置いて湯に浸かる相手は、しっとりと濡れる黒の髪を後ろへと払っている。露わになる首筋が艶めかしい、そう思ってしまったのは何故なのか、先程から妙に高鳴る心音の正体が掴めぬまま、俺は少しでも距離を縮めようとにじり寄った。一瞬嫌そうな表情を浮かべたが構わず、だが相手は動く事無くじっとして、気付けば距離は、人1人入れるか否かまで近付いていた。
「良く来るのか?」
「えぇ、まぁ。」
「この辺りって、なんか知らねぇけど、出るらしいんだろ?」
「その様ですね。まぁ、私は見た事ありませんけれど。」
「ふぅ~ん。あぁ、名前は何て言うんだよ?まだ聞いて無かったよな。」
「・・・名を訊くのならば、先に其方からお名乗りになったら如何でしょう?」
「言うな、テメェ・・・まぁ、そうだよな。俺様の名前はギルベルト・バイルシュミット。覚えとけよ。」
「外つ国の方々の名は覚え難くて好かぬのですが・・・ギル、ベルト、さん、ですね。はぁ、私は菊、と申します。」
湯の温度で上気した頬が薄紅に染まり、潤む黒曜石が伏せられ長い睫毛が降りて影を作る。小さく形の良い唇は控え目に動き、全体的に色気の漂う風貌をしているのだと認識した時には既に遅かった。そこまで理解して、俺は、自身の心臓の高鳴りの理由に唐突に辿りついてしまった。俺とした事が、つまり、この男に対して劣情を抱いていると言うのか?
「―――・・・・・・っ!!?」
驚愕の事実に愕然とする俺を横目に見る男の、菊の瞳が胡乱気に象られる。
「大丈夫ですか?ぎるべると、さん。」
慣れぬ発音で聊か舌足らずになる菊の白く、しかしやはり頬同様薄紅が乗った細い腕が俺の額に伸ばされる。
「きっ、菊!!?」
「・・・呼び捨て・・・まぁ、大目に見ましょうか。逆上せたのですか?」
近くで馨る気配に、一気に体温が上昇するのを他人事のように感じる。その体からは、洗い流されたと言うのに微かな、柑橘系の香がした。知覚出来る全ての情報を脳が無意識に収集する間に、視界がぼんやりと靄が掛かって来た。逆上せた、のかもしれない。グラリと世界が反転したような気がし、上体が傾いだ。スローモーションで動いて行く景色すら遠くなる頃、しきりに俺の名を呼ぶ菊の声だけがはっきり聞こえた。