日溜まりのゆめ
ある時から、三成の世界にひとりの男が現われた。
その男はやけに頻繁に視界の内に入り込み、己の名を呼び続けるようになった。偉大なる御方の左腕として、殲滅と蹂躙をそうと意識もせずに遂行する三成に対して、こうまで無邪気に、てらいなく声をかける者は初めてだった。
例えば三成が周囲の者すべてを竦ませる形相で、彼の神を貶めた一兵卒に刃を向けたような時にも、男は無造作にその腕を掴んでくる。そして決まりきった台詞を口にする。
三成、無暗に刀を抜くな。そんな言い方をしてはいけない。誤解をされるだけだ。
そんなことを言いながら三成を鎮めようとする男は、まるで三成には理解のできぬ生き物のようだった。これは、確か、豊臣に反した強大な軍勢の将であったはずだ。戦場で戦国最強と名高い鋼鉄の武将を従え、三成を警戒させた、凄まじい覇気を纏った男であったはずなのだ。
それが阿呆のような笑みを浮かべて三成の名を呼ぶ。
ふざけたことばかりを言いながら、最後に必ず名を付け加えてみせる。
なあ、気持ちの良い空だなあ、三成。
見てみろ、あそこに珍しい鳥がいるぞ!あれは何だったかな。三成、わかるか?
飯は食ったのか?腹が減っては肝心な時に動けんのだぞ、三成。
無意味な囀りは耳に煩わしく、諫言めいた小言は余計な御世話にもほどがある。三成はそういった言葉を聞くたびに苛々として怒鳴りつけた。
「うるさい黙れ。私に関わるな、いっそ野垂れ死ね!」
三成の悪態は冗談ではない。常に本気でそうと叩きつけているというのに、男はそのたびにちょっと驚いたような顔をしてから、滲み出るように笑みを浮かべる。
「―――三成。でも、ほら」
そして男は天に燦然と輝く太陽を見上げて、いつも三成に示してみせた。
「世界は美しいだろう?」
そのたびに三成はうんざりした。心の底からこの意味のわからない男を厭わしく思った。
何せ妙に、眩しい。まるで眼が焼かれるようだと、三成は漠然と感じていた。
その日の男は、特に際立って馬鹿なことをしてみせた。
戦のない珍しい日だった。三成が与えられた部屋で刀の手入れをしていると、廊下の方からひとつ足音が近づいてくるのがわかった。やや早足の、重みが乗った足音だ。どたどたどたと、気配を隠しもしないその音が誰を示しているのか、わかってしまう自分に少々嫌気がさしながらも、三成は鋭く言った。
「そこで止まれ」
ぴたりと足音が止まった。まさに部屋の戸を開く寸前といった気配だ。
「何用だ。くだらん内容なら許さん、そこを開ける前に去ね」
「三成、手が塞がっているんだ。開けてくれないか?」
まったく会話をしようとしない男は、無邪気なのか計算尽くなのか時折疑わしい。
「……家康、勝手に私の部屋を訪ねるなと、何度言ったら貴様の頭は理解するのだ」
「いいじゃないか、邪魔はしないぞ」
けろりとした声が返る。もちろん、三成にとって家康の訪問が邪魔でなかったことなどない。
戦の合間の穏やかな日に、この相手が己の部屋を訪ねるようになって久しい。初めのうちは律義に怒り、逐一追い返していた三成も、やがてその徒労に気付いた。
なにせ結局三成が何を言おうとも、男は自分の好きに振る舞うのだ。
「仕方がないな。三成、行儀が悪いが許せよ」
そう言って今も、三成が戸を開けないことを気に掛けず、家康は己の足先を差し込んで引き戸を開いてしまった。その態度に三成は思わず顔を顰めた。
「貴様、それが将のすることか!」
はは、と家康は声をあげ、からりと笑った。笑えば誤魔化せると思っているあたりも腹立たしいのだが、確かに三成が見る限りでも、この男の周囲に対してその笑顔は劇的に効く。家康が笑えばつられて笑う、阿呆のような兵の姿を幾度も眺めたことがあった。
「……貴様はつくづく私の機嫌を損ねたいらしいな」
「そんなつもりはない!むしろワシはお前に健やかでいてほしいんだ。―――見ろ!」
と言って、家康は塞がっていた両手に乗っていたものを差し出した。
そこにあったのは、両手でしっかり持ち上げられた盆と、その上に鎮座する白い見慣れた物体。
「握り飯を持ってきたぞ。どうせお前食っていないのだろう」
決めつけて、やはり笑って見せる男を前に、三成は幾度目かもわからないほどうんざりした。即座に切り捨てる。
「要らん。返してこい」
「そう言うな。聞いたぞ、また手つかずの膳を返したそうじゃないか」
なぜ将たる者がそんな瑣末事を知っているのか。三成は苦々しく思ったが、理由も見当がついた。いかにも人好きがするこの男は、一介の兵卒やそれこそ炊事を担当する下々の者とまで親しく言葉を交わしている。
要らん、ともう一度叩きつけようとした瞬間、眼の前にずいと盆が差し出される。思わず三成が顔を反らしたほどの勢いだ。刀の手入れをする手もさすがに止まった。邪魔はしないなどとどの口が言うかと、三成は男を睨みつけた。
そこで眼にした家康の顔にふと違和感を覚える。
普段の気楽に構えている時とは違う、どこか固唾を飲んでいるような表情だ。このいつも憎らしい程泰然としている男が、戦場でもなしに緊張を孕むなど珍しい。そうと気付いた三成は、もう一度眼の前の盆に視線を戻した。
白い握り飯がふたつ寄り添うように並ぶ。まだ湯気をたてているそれは、微妙に形が崩れている。
――悟った三成はあえて沈黙を選んだ。馬鹿馬鹿しい。三成は、勘が悪い男ではない。
「食わないか?」
そう言って、いつもの笑みを浮かべようとした男の顔はやはり少しばかり硬い。これは、退くまい。そう思った三成はあまりの馬鹿らしさに刀を放った。それは綺麗な放射線を描いて部屋の隅へ転がっていく。唐突な行動に、家康が思わずその軌跡を眼で追っているうちに、三成は手を伸ばして握り飯をひとつ掴んだ。
そしてひと口に頬張れば、家康はぽかんと口を開けた。おそらくもっと粘る心づもりだったに違いない。
そんな無駄な時間を費やしてやる義理はない。
三成が咀嚼を終え、ごくりと飲み込んだ瞬間に、家康は前のめりになる勢いで尋ねた。
「う、美味いか!?」
「……米を固めただけだろうが」
端的に返せば、家康はちょっと困ったような顔をして視線を彷徨わせる。
「いや、案外な?塩気の加減が難しかったりと奥が深く……」
「これで気が済んだろう。ひとつで十分だ」
三成は溜息をついて言った。
「自分で作ったものは自分で始末しろ」
その男はやけに頻繁に視界の内に入り込み、己の名を呼び続けるようになった。偉大なる御方の左腕として、殲滅と蹂躙をそうと意識もせずに遂行する三成に対して、こうまで無邪気に、てらいなく声をかける者は初めてだった。
例えば三成が周囲の者すべてを竦ませる形相で、彼の神を貶めた一兵卒に刃を向けたような時にも、男は無造作にその腕を掴んでくる。そして決まりきった台詞を口にする。
三成、無暗に刀を抜くな。そんな言い方をしてはいけない。誤解をされるだけだ。
そんなことを言いながら三成を鎮めようとする男は、まるで三成には理解のできぬ生き物のようだった。これは、確か、豊臣に反した強大な軍勢の将であったはずだ。戦場で戦国最強と名高い鋼鉄の武将を従え、三成を警戒させた、凄まじい覇気を纏った男であったはずなのだ。
それが阿呆のような笑みを浮かべて三成の名を呼ぶ。
ふざけたことばかりを言いながら、最後に必ず名を付け加えてみせる。
なあ、気持ちの良い空だなあ、三成。
見てみろ、あそこに珍しい鳥がいるぞ!あれは何だったかな。三成、わかるか?
飯は食ったのか?腹が減っては肝心な時に動けんのだぞ、三成。
無意味な囀りは耳に煩わしく、諫言めいた小言は余計な御世話にもほどがある。三成はそういった言葉を聞くたびに苛々として怒鳴りつけた。
「うるさい黙れ。私に関わるな、いっそ野垂れ死ね!」
三成の悪態は冗談ではない。常に本気でそうと叩きつけているというのに、男はそのたびにちょっと驚いたような顔をしてから、滲み出るように笑みを浮かべる。
「―――三成。でも、ほら」
そして男は天に燦然と輝く太陽を見上げて、いつも三成に示してみせた。
「世界は美しいだろう?」
そのたびに三成はうんざりした。心の底からこの意味のわからない男を厭わしく思った。
何せ妙に、眩しい。まるで眼が焼かれるようだと、三成は漠然と感じていた。
その日の男は、特に際立って馬鹿なことをしてみせた。
戦のない珍しい日だった。三成が与えられた部屋で刀の手入れをしていると、廊下の方からひとつ足音が近づいてくるのがわかった。やや早足の、重みが乗った足音だ。どたどたどたと、気配を隠しもしないその音が誰を示しているのか、わかってしまう自分に少々嫌気がさしながらも、三成は鋭く言った。
「そこで止まれ」
ぴたりと足音が止まった。まさに部屋の戸を開く寸前といった気配だ。
「何用だ。くだらん内容なら許さん、そこを開ける前に去ね」
「三成、手が塞がっているんだ。開けてくれないか?」
まったく会話をしようとしない男は、無邪気なのか計算尽くなのか時折疑わしい。
「……家康、勝手に私の部屋を訪ねるなと、何度言ったら貴様の頭は理解するのだ」
「いいじゃないか、邪魔はしないぞ」
けろりとした声が返る。もちろん、三成にとって家康の訪問が邪魔でなかったことなどない。
戦の合間の穏やかな日に、この相手が己の部屋を訪ねるようになって久しい。初めのうちは律義に怒り、逐一追い返していた三成も、やがてその徒労に気付いた。
なにせ結局三成が何を言おうとも、男は自分の好きに振る舞うのだ。
「仕方がないな。三成、行儀が悪いが許せよ」
そう言って今も、三成が戸を開けないことを気に掛けず、家康は己の足先を差し込んで引き戸を開いてしまった。その態度に三成は思わず顔を顰めた。
「貴様、それが将のすることか!」
はは、と家康は声をあげ、からりと笑った。笑えば誤魔化せると思っているあたりも腹立たしいのだが、確かに三成が見る限りでも、この男の周囲に対してその笑顔は劇的に効く。家康が笑えばつられて笑う、阿呆のような兵の姿を幾度も眺めたことがあった。
「……貴様はつくづく私の機嫌を損ねたいらしいな」
「そんなつもりはない!むしろワシはお前に健やかでいてほしいんだ。―――見ろ!」
と言って、家康は塞がっていた両手に乗っていたものを差し出した。
そこにあったのは、両手でしっかり持ち上げられた盆と、その上に鎮座する白い見慣れた物体。
「握り飯を持ってきたぞ。どうせお前食っていないのだろう」
決めつけて、やはり笑って見せる男を前に、三成は幾度目かもわからないほどうんざりした。即座に切り捨てる。
「要らん。返してこい」
「そう言うな。聞いたぞ、また手つかずの膳を返したそうじゃないか」
なぜ将たる者がそんな瑣末事を知っているのか。三成は苦々しく思ったが、理由も見当がついた。いかにも人好きがするこの男は、一介の兵卒やそれこそ炊事を担当する下々の者とまで親しく言葉を交わしている。
要らん、ともう一度叩きつけようとした瞬間、眼の前にずいと盆が差し出される。思わず三成が顔を反らしたほどの勢いだ。刀の手入れをする手もさすがに止まった。邪魔はしないなどとどの口が言うかと、三成は男を睨みつけた。
そこで眼にした家康の顔にふと違和感を覚える。
普段の気楽に構えている時とは違う、どこか固唾を飲んでいるような表情だ。このいつも憎らしい程泰然としている男が、戦場でもなしに緊張を孕むなど珍しい。そうと気付いた三成は、もう一度眼の前の盆に視線を戻した。
白い握り飯がふたつ寄り添うように並ぶ。まだ湯気をたてているそれは、微妙に形が崩れている。
――悟った三成はあえて沈黙を選んだ。馬鹿馬鹿しい。三成は、勘が悪い男ではない。
「食わないか?」
そう言って、いつもの笑みを浮かべようとした男の顔はやはり少しばかり硬い。これは、退くまい。そう思った三成はあまりの馬鹿らしさに刀を放った。それは綺麗な放射線を描いて部屋の隅へ転がっていく。唐突な行動に、家康が思わずその軌跡を眼で追っているうちに、三成は手を伸ばして握り飯をひとつ掴んだ。
そしてひと口に頬張れば、家康はぽかんと口を開けた。おそらくもっと粘る心づもりだったに違いない。
そんな無駄な時間を費やしてやる義理はない。
三成が咀嚼を終え、ごくりと飲み込んだ瞬間に、家康は前のめりになる勢いで尋ねた。
「う、美味いか!?」
「……米を固めただけだろうが」
端的に返せば、家康はちょっと困ったような顔をして視線を彷徨わせる。
「いや、案外な?塩気の加減が難しかったりと奥が深く……」
「これで気が済んだろう。ひとつで十分だ」
三成は溜息をついて言った。
「自分で作ったものは自分で始末しろ」