とある指南役
彼がいなくなるのは何となく嫌だった。その感情は漠然としている。曖昧な事は嫌いだったが、どうしょうもない事もあるのだという事も目の前の男からさりげなく教えられた事だった。
「ルック」
「……何?」
「元気で。これからちょっとばかり大変だろうけれど、無理をしないようにな」
そしてレザーラはいなくなり、彼が最後に残した言葉の意味をルックは嫌と言うほど思い知る事になった。……家事労働的な意味で。
如何に彼がルックの力では及ばぬ所を補助してくれていたか思い知った。手の届かない場所の埃を払いたい、そういった欲求に苛まれつつ少年は悔しげにはたきを手に高い棚の上を見上げる。ああ、あの背の高い男がいてくれたらもっと楽だろうに。
彼はこの結末を予測していたのだろうか。そんな事を考えながらルックは歩く。あの塔から遥か離れたグラスランドの大地を。
結局彼の願いは成就しなかった。良き選択、その末訪れる良き未来とやらの可能性、そんなものはこんな自分にあったのだろうか。よく判らない。もはや考えても仕方のない事だ。
結局彼と逢ったのは本人が言っていた通りあれが最後だったが、人生初めて出逢った師匠以外の人間という事でその印象は深く心に根付いている。あの気持ちの悪さも今では判っている……小癪な事に。最後に彼に抱きついた行為がまさにその裏の真意を物語っていた。
どうやら自分は、彼に兄貴分的な好意を抱き懐いていたものらしい。
恐らく相手も気付いていただろう。だが完全に当時のルックに合わせてくれたのだ。深い度量。これが完全に認められた後継者と歪な紋章の器の差なのだろうか。
違うな、とルックの口元は皮肉に歪む。
風がざわめき、前髪が翻る。
切っ掛けはいくらでも提示されていた。それを拒んだのは自分。やりたいようにやる、その結果がこれだった。後悔はない。逡巡はあるにせよ。
彼はこの選択と結果を……本当に否定しないだろうか。流れる風に乗って、幻の声が聞こえた気がする。
──お前が選んだ道だ、否定はすまい。願わくばお前の望む行為の果てが安寧と安息に満ちているように。
幻のような声。これは彼の祈りなのだろうか。彼の事はあの頃よりも聞き知っている。どういった立場の人物であったのか、その身に宿った紋章の性質も。何だかんだで甘い人だった、そう考えて頭をすぱりと切り換える。回顧の時間は終わった。次の行動に移る時だ。
もはや彼の事は二度と思い出す事も無いだろう。
まったく仕方のない子だよ。
そう呟いて彼は崩れ果てた残骸の前に佇む。既にそこには何も無いだろう、一度真を宿した人間は亡骸が残らない。あの子の魂は最後の瞬間救われたのだろうか。
それこそレザーラには永遠に分かり得ぬ事だ。
──でも、礼は言わないとね
この地に集まった星々に。……全員は無理だからとりあえず後輩にでも。あの哀れな子に静寂の救いを与え最悪の事態を防いでくれた事を。
そこまで考え、遠い海から来た旅人は一人苦笑する。
頭の中に住まう風の子供は、長じた姿ではなく十にも満たないあの塔で見た幼い姿のままだったからだった。