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とある指南役

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「そうさ。でもどうした事か生き延びた。そして今がある。全ては判断と選択なんだよ、ルック。その如何によって、今のお前には想像もつかない未来が無限に広がっているだろう。どれを選ぶかは将来のお前自身なのだろうな」
廊下は綺麗になったし、そのうち彼の部屋として与えられていた小部屋も、広間も、失礼しますと断りながらレックナートの佇む星見の間もひたすら清掃した。もっともその8割方はレザーラがやってしまったのだが。いい加減にしておきなさいよ、と小さな声で師匠に苦言を呈する声が一度だけ聞こえた。室内の埃っぽさに関してならば、遺憾ながら彼に同意したくなっている自分に気が付いた。……あれだけ恩を感じているのにどこか失礼な気がする。
そしてある意味失礼千万な彼は他にも色々と教えてくれる。机の効率的な拭き方やら、棚や書架の埃をそっと取り払うコツ、食事を作る際気をつけるべき箇所など至る所まで。まさしく彼は小間使いだった。そういった経歴があるのだろうな、と漠然と思った。
彼はレックナートとのやりとりにはほとんど参加せず、例の苦言以外はたまに顔を合わせるとおはようございます、こんにちは、などと社交辞令にも似た挨拶をするだけだった。そしてルックが手こずっている課題やら知りたがっているが手のつけようが判らない調べ物を手伝ってくれる。勤勉な男だった。だが課題や勉学そのものの無いようには一切口出ししない。関わりもしない。
一度だけ何故、と訊ねると、それは俺のやるべき事の範疇から外れているという返事が返ってきた。範疇とはなんぞやと問い返すと、彼が渡してよこしたのは分厚い辞書だった。
レザーラとはそういう人間だった。

ふと、彼にどことなく懐いている事を自覚した。気持ちが悪い。ルックの世界はあの朽ち果てるまで続く牢獄から拾い上げてくれたレックナートへの深い恩と感謝、そしてそんな「世界」に対する皮肉、身内にあって思うようにもならず何かを浸食していく紋章に対する得体の知れない恐怖感、それが全てだった。
そこに彼は闖入してきた。闖入者。まさにそれだった。彼は異端の介入者だ。だが、他の者と触れ合い言葉を交わすという所作をルックに教えてくれたのだった。……それ以外の、どうやらルック自身がレックナートの弟子として以外に行った方が良いと思われる各種行為に関しても。そして師匠とはまた違う側面から彼の中にある何かに触れてくるのだった。
それが気持ち悪かった。気持ち悪いのは自分の心に対してだった。人と関わる、全くの外部の人間と慣れ親しむという行為に彼はまだ慣れていなかった。慣れようもない。レザーラという男が初めてだったのだから。

そして彼はある日唐突に別れを告げた。
「そろそろいいかと思ってね」
「……何が」
「お前はずっとその調子だな、ルック。まるで全身を針で被った生き物のようだ。外部に対して攻撃的なようでいて、本当は自分を守っている」
「アンタは頭がいいよ、それに大人だ。僕はまだ未熟だよ、そんな事判ってる」
「判ってるなら上出来だろう」
「アンタはよく判らない……手伝ってくれたり、教えてくれたり、でも馬鹿にされている気もした。何を考えているのかさっぱり判らなかった」
「そりゃそうさ、隠していたからね。そこは年の功というやつだ。何にせよ俺の目的はある程度達成されたよ」
「あんたの目的は何だったのか、それぐらい訊いてもいいだろう?」
レザーラの腰の高さほど、幼い子供とも思えぬ言いぐさ。そう在る事が彼の定めというのならば哀れな事だが、この先彼の常に尖った精神に安寧の瞬間は訪れるのだろうか。
だがとりあえず質問に答える事にした。ここは偽らない方がいいだろう。
「家事を教えに来た」
「……は?」
「勉強の手助けは、オマケだな」
「この場に及んで冗談はやめろよ」
「いや、レックナート殿に言われたんだよ、自分は目が見えないからあまり気にしないけれど、不衛生な環境は子供の成長にはあまり向かないだろうと。ついでに本人に仕込んでおけば自主的に何とかするに違いないとかどうとか」
「……それ、本当に冗談じゃないの?」
「疑うなら君の師匠に訊いてみたらどうかな。彼女もそれなりに知り合いが多かろうが、恐らく一番適当な人材が俺だったのだろうさ」
まさにその通りだった。家事能力の高い彼に仕込まれた生活労働の手順一通り、日々繰り返されたそれはルックの習慣に染みこんでしまった。そして綺麗な部屋は気持ちが良いという感覚も。実に不本意な事だが、事実だった。
「じゃあアンタは、家事に関してもう教える事が無いと思ったから行ってしまうのか」
「厳密には基礎を教えたから。お前は勉強家だから、応用の術はこの大量の蔵書の中から探し出す事ができるだろうな。俺の役目は終わった」
「……僕は」
「気持ち悪いか?」
「!………」
レザーラは微かに笑ったようだった。あまり見ない顔だ。彼はいつも真面目な表情だったから。
「そこが課題だな、ルック。今は無理でも、いつか外の世界を知る事になる。色々なものを見て、多くの書物からは決して得られぬ知識を得る事になるだろう。それがお前に何をもたらすかは俺には想像もつかないけどね」
「いつか、気持ち悪くなくなる、のかな」
「さてね。あまり斜めに構えすぎると単なるひねくれ者に陥るぞ。そんな奴を一人知っていたけどね、昔」
「他の奴の事なんてどうでもいいよ」
「その態度が気持ち悪さに繋がっているんだよ、ルック。他者に視線を向ける所から人との関わりは始まるものだ。俺とお前のように」
「……アンタはレックナート様の客人だったから」
「確かにね」
ふ、と苦笑して、そして真面目な表情で幼い少年を見下ろし視線を合わせ、どこからか来てどこへやらと去って行く不思議な真持ちは言い含めるように囁きかけてきた。
「もうお前と会う事も無いだろう。だから俺から最後に、この言葉をあげよう」
彼は腰をかがめる。幼いルックから見ると彼はすらりと背の高い人間に見えた。腰を落とし、正面から視線を合わせ、そして彼は再び微かな笑みを浮かべた。
「お前の未来が良き選択の末良き未来へと繋がっていく事を願うよ」」
「………」
それが難しい事である事をレザーラは既に知っていたが、それを少年に告げる必要もなかろう。何より本人がうっすらと悟っているに違いない事柄だった。
そのまま口調を崩してレザーラはじっと視線を向けてくる少年を見返し軽く肩をすくめた。
「まあ、あまり気を張る必要も無いさ。色々言ったがな、ルック。お前のやりたいようにやればいいのさ、結局は」
「僕の好きなように選択しろ、って事か」
「上等。その結果お前の未来は定まっていくだろう。よく考えるがいい。しかしそれがどういう方向であるにせよ、お前の選択を俺は否定しまい。何があっても」
「……」
「ただ、もうちょっと口の利き方を何とかした方がいいな」
「うるさいな、それこそ僕のやりたいようにやる選択だろう」
「そりゃそうだ」
ふ、と小さく笑みを含んだ息を吐いて、レザーラは身を起こそうとする。その首に思わず抱きついたのは発作的な行動だった。そのままレザーラの動きも止まり、ぽんぽんと小さな少年の背を叩いた。
「気持ち悪く無いのか?」
「気持ち悪いよ、……今も。でも」
作品名:とある指南役 作家名:滝井ルト