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融解と明滅

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つめたさと寒さに凍結された嗅覚と視覚がじわりじわりと戻り来て、凍っていた五感の世界から我々がぼうやりと立ち返ると、季節はもう、春の様相を提示しはじめた後である。訪れは緩慢に、しかして認識は明確に。色味を失えた草はらに、無防備に寝転ぶ青年の触れる地面は大地のあたたかみを隠している。それはまるで世界のひみつを体内に仕舞いこむように、世界の気まぐれな誘惑が人間に降りかかるみたいに。――何にせよ彼が寝転ぶ土手に、新しい季節はすでにくすぶっていた。
「幽」
幼いときはもっと、つめさきに火を灯すような声だった。つまり苛々している、という感情を、積極的に誇示するようなかんじの。
最近では珍しくなった、自分の本名を呼ぶ実兄の声色が、少しなりとも落ち着いてきたのは一体いつのころからだったろう。ふ、と耳からこめかみへと通り抜けた追憶の種は、相対する静雄がそのまま話しかけるから、どこへなりとも霧散してしまった。
水面に、連鎖する、車のヘッドライトの明滅の光線が先ほどよりも強く幽のまなこを射るので、夕闇が音をたてて忍び寄ってきた気配を実感する。春になりかけた陽の、暮れるのは一か月前よりもずいぶんと遅い。

幽、と言ってどこぞから歩いてきた兄は、先ほど「コーヒー買ってくる」と言い置いて自動販売機か何かを探しに行ったはずだった。あれからしばらく意識がないので、幽は河原の土手あたりに適当に転がったまま、どうやらうたたねをしていたらしい。
寝転んだままで見上げる兄の、脱色されてきらきらと光る頭髪をぼうやりと見つめる。吐かれた舌うちはいつもの様子と音程を保っていて、色のついたサングラスに隠されぎみの眉根が、苛立たしげに歪んでいるのを幽は見止めた。
「お前、自分が芸能人だってことちょっとは自覚しろよ。こんなとこに寝転んで、この前みたくお前のファンに取り囲まれんのは俺はごめんだ」
「……そんなこと言ったって俺は俺だよ」
「屁理屈こねるな。殴るぞ」
「やってみたら、って言うと殴るんだろう。知ってる。ごめん」
「……、」
いま、ぐ、という形をして結局口の中に仕舞われた兄の感情との付き合い方は、もしかしたら兄自身よりよく知っているかもしれない。
それでなくとも「一番最初の暴力」を自分にふるいかけたことのある、彼がもうずっと、幽に弱いことを他人より甘いことを知っていた。
作品名:融解と明滅 作家名:csk