融解と明滅
体温を感じるほどの至近距離から遠ざかり、他の人間がやったらそれこそ病院送りくらいでは済まないだろうお遊び行為の、戦利品であるサングラスを手のうちで試すすがめつ見つめながら幽は問う。隣からは「ああ、もういいから返せ」などというぶつくさとした文句が垂れ流されているところであったが、幽は、眼鏡を片手にすでに冷めかけたコーヒーをポーカーフェイスで啜るのみだ。
「本当に似合わないと思うけどね。……俺が触っても怒らないなら、まあべつにいいよ」
「あ?何か言ったか」
「言ってない。そろそろ帰るけど、送る?」
「安全運転するならな」
苦虫をかみつぶしたような表情の、兄に聞こえないように紡いだ声音はたぶん、あたたかさを閉じ込めた大地に還元されて春を待つ。世界のひみつを抱え込むのに幽の器はまだ育ち切っていなかったし、かなしみを受け入れる相手である兄の精神もまた、芽吹くのを待っているところだという絶対的な「認識」。
手のうちでくるりと回してからグラスのレンズに映る街灯の明かりを確かめて、そうして幽は、傍らに置いていた、サンドウィッチとコーヒーの残りをまるで無表情に飲み込んだ。
水面に点々と円を描いた、等間隔に並んだ街灯は、すでに持ちうる限りの力を発揮し不穏なくらがりを少しでも照らそうと善処していた。
春を待つ河原の息吹をまっこうに全身に受けながら、もうすぐだ、と幽は思う。ロックバンドのライブの、開演時間が差し迫り、焚かれるスモークの少し息苦しいような期待が張り詰めてゆくあの感じ。観客の祈りをつつみこむ中で、しずかに会場を包んでいたご機嫌なBGMが音を失くし、フ、と、照明がすべて落とされたときのあの絶対的な、有象無象を抱え込んだ静寂。200人分の鼓動と期待と祈りと羨望と焦燥とを、すべて含んだあの静寂。
幽が待ち望んでいるのは「自身の感情の発露」する瞬間であり、間違いなくその鍵を、スイッチを、持っているのは実兄である静雄であるという確信があった。
いつだって力を孕んだ静雄の目が、ポメラニアンだかプードルだか何だかの犬を、それを背景として佇む世界を、とらえているのを幽は見た。
融解の日がいつ来るのかは、たぶんまだ、誰も知らない。