融解と明滅
いつものように確かに彼の体を一度は通り抜けたはずの「かなしみ」がしらじらと凝り固まり、乾ききったソフト・コンタクトレンズのように指さきから剥離してそぞろ落ちてゆく様を見る。それはただの観念であったし、記憶であったし、ひょっとすると願望であったかもしれない。彼の哀しみを閉じ込める瓶は幼少期に用意されており、それ以外に相応しい器というものを、これまで幽は見たことさえなかったのだけれど、……
幽の手からフリッターを挟んだサンドウィッチの入れ物が離れた。目を合わせない兄の横顔を注視して、その銀ぶちの、冷やかに往来の信号を反射して鈍くきらめくサングラスに手をかけてみる。
「……、おい、幽」
「ちょっとだけ。割ったりしない」
所有者である兄自身が少し力をこめたら壊れてしまいそうな華奢いフレームと、つるの部分をそうっとなぞって、幽はごく自然な動作で、兄のサングラスを奪い取る。
そろそろ殴られるかな、と思ったけれど、60cmほどの距離を置いて座っていた兄は、やはり少しだけ困ったような餌のもらえない犬っころみたいな顔をするので何だか急に忍びない。
幽は彼との間の枯れた草はらに、体重を支えるように自身の手をつっぱねて、七割は奪ったもののいまだ兄の耳から外れないサングラスの方へと徐々に徐々にと近づいて、ゆく。
ふ、と、風ではない、温度のある空気がふるえた。それが兄の吐息だと分かるほど、幽は今静雄に接近している。すぐ隣に膝立ちになり、最後まで抵抗を続ける眼鏡のつるの、兄の耳にかかった部分を静かに探り当ててはゆうるりと外す。まだ、殴られない。まだ。まだ。まだ。
しかしてその代わりにおとされた声の、思わぬ困惑の色味に、無事にサングラスを兄の顔から剥離させた幽はなんだかおもしろくなってしまったのだけれど――
「おい、幽、近い」
「はは、なに、動揺してるの」
「笑うなら顔に出して笑え!声だけだと不気味だろ」
「笑ってるよ」
「鏡見ろ。笑ってねえ」
「それより、目が悪いから、かけてるわけじゃないんだ」