Treat or Treatment 【aph独普】
むかしむかしあるところに、ひとりぼっちのあくまがいました。
あくまはたいへん力がつよかったので、ずっとひとりだったのです。
それは、月のたいそう明るい夜でした。
しもばしらもしらかばも、たくさん立っている林の中で、あくまはいっぴきの子おおかみを拾いました。
子おおかみは、血をながしていました。
むれからはぐれてケガをしたのか、それとももしかしたら何かよわいところがあってむれそのものからはじき出されてしまったのか。
ともかく、血も半分凍り始めているほど、さむいさむい夜でした。
あくまはいいました。
「おれの使い魔になるか。そんなら助けてやらんでもねーぞ。代わりに……」
とがった爪で、かたい土とまざった血をほじり、あくまはぺろりとなめました。くらい色のべにを、くちびるにぬったようにのこりました。
くちびるがうごきます。
――ずっと。
マスクをかけた親子連れが気遣いながら出ていくのを見送ると、ルートヴィヒは伸びをした。
風邪患者が増えてきて、診療所はかなり盛況だった。病気の子どもがいないに越したことはないので、早く流行が収まってくれればいいが、やはりインフルエンザワクチンの仕入れをもっと増やすかドクターに確認しようかと口元に手を当てたところ、胸ポケットからパーカーの頭が現れた。
「兄さん。まだ仕事中だ」
「ぶー、今のが最後の患者じゃねーか。もう誰も見てねーよ」
「だが、6時までは就労時間だ。わかるか」
「おれさまたいくつー。かーまーえーよー!」
「あ~ほら。飴玉だ。これでもう少し我慢してくれ」
「お、さすがルッツ! 俺様の使い魔なだけはあるな。世界一の狼男だぜ」
グレープ味のキャンディーは、ポケットの中にいる「悪魔」の頭の大きさとあまり変わらないため、彼は包み紙ごと抱えながら、甘味を舐めている。虫歯になりそうだが、そこは人ならざるものだからか、今のところ問題はないらしい。
小さな手に小さな足、おまけに羽まで小さい。猫が吐きだした毛玉くらいしかないんじゃないか。
抱えるフォークもケーキ用の一番小さいサイズで、皿の上のものをつっつくことぐらいしか機能しないだろう。
「ルートヴィヒ」
診療所の主であるドクターに呼ばれた。彼はインテリが白衣を着て歩いているのを地で行く物腰で、もう帰ってもいいですよ、と告げた。
このあたりの看板娘ならぬ、看板看護師と評されるナースも、戸棚のカギを閉めながらにっこり笑う。
「ローデリヒ先生の言うとおりですよ。明日お休みを取るならなおさら ね! それにしても、ルートヴィヒさんが来てから、ここますます評判が上がったわねー。明日来る常連さんきっとがっかりしますよ」
「腕のいい薬剤師はどこも引っ張りだこですからね」
「おまけに、インテリオールバック属性だけどどこかワイルドさがあるっていうのが、玄人にはたまらないんですよハァハァ」
胸元で、おれさまのおかげだぜー!と呟く声にはルートヴィヒは反応しないでおいた。
一回反応してしまって、ドクターを青ざめさせ、ナースにはひどく口をつり上がらせてしまった失敗は繰り返したくない。何だか、両者に角や牙のようなものも見えた気がしたが、多分緊張が見せた幻覚だろうとルートヴィヒは思っていた。あの時は、働き始めてまだ慣れていないという言い訳も何とか立ったが、今になって見ると非常に苦しい。
ルートヴィヒとて、ドクターがのんびり屋のせいか、細かい部分を詮索してこない一方で、自宅から歩いて行ける範囲でこれほど待遇のいい職場は実質初めてであり、正直みすみすクビにされたくはない。
薬の知識はあまりなかったが、そこは胸の中の悪魔がいくらでも教えてくれた。学んでいくうちに持ち前の嗅覚でかなり理解できるようになり、一時この悪魔が調子を崩して自宅で留守番していた時でも問題なく働けるぐらいにはなっている。
それでも安心が欲しいのか――動悸・息切れに何とか的な――それはルートヴィヒもそれなりに生きてきてそれなりに動悸息切れを経験することはあるので否定はしないが、お守りのように胸に悪魔を抱えてしまう。
特に満月の前後になると。
「いい月ですね。申し訳ありませんがエリザベータ。タルティーニのCDをかけていただけませんか」
「わかりました」
「こんな赤い月の夜には、あの甘美なトリルのバイオリンソナタが、とても似合う」
何だか、ロマンチックな香りが二人の間に流れたので、ロッカールームにルートヴィヒは退散した。
白衣からシャツの胸ポケットに手のひらを介して悪魔を移してやると、ああ、やっぱり白衣よりお前の肉体に近くていいなぁとケセケセ笑った。
ロッカールームの鍵を閉めてルートヴィヒがため息をつくと、鏡の向こうには獣の耳と毛皮と尻尾を持つ異形が立っていた。
「このモフモフのまま外に出られるならコートいらねーんだけどなぁ」
「満月が過ぎたら、作ってやるからもう少しがまんしてくれ」
「作ってくれるのか! マジで!!」
牙が生えてますます笑うのが困難になりながらも、ルートヴィヒは精いっぱい穏やかな口元を保って、悪魔を見つめた。
「頼むから兄さん。今夜はあんまり刺激しないでくれ。変身が解けてしまう」
「仕方ねぇなぁ。帰るまで静かにしてやるよ」
姿を人にし、肉屋でケバブをおまけしてもらって、少しでも欲を抑えるために、不本意ではあるが頬張りながら、雪も降り出しそうな空の下を歩いて行く。
たくさんの車が寒さを切り裂きながら突進しては通り過ぎて行った。
アスファルトにあった砂利をうっかり蹴って、排水溝に落ち、水音がした。最後に遠くで山犬の声を聞いたのはいつのことだったろうか。この自慢の耳をもってしても聞こえてはこない。
ケバブサンドのちぎったのを摘まんでポケットの上で揺らすと、かぶりついてきた。もちもちの生地より青みのある手は、温かいものを食べても吐息は白にならない。
「ちょっと辛いか」
「いや、うめめ」
「染みはつけてくれるなよ」
やがて体温と腹がくちたのとで満たされたのか、胸ポケットが寝息を立て始めた。心臓に近い場所だ。ルートヴィヒはそっと手を置いた。悪魔が身じろぐ。小さな小さな賢くも愛らしくもすっかり小さく弱くなってしまった飛べない悪魔。
「兄さん」
こんな時、貴方の命を吸って動かされているこの心臓がひどく早打つ。
気がついたのはここ数十年のことだ。
年々体格が立派になるルートヴィヒに比して、悪魔は段々小さくなっていった。
見上げていた艶のある黒羽はやがて短くなりとうとうお飾りレベルになった。
問い詰めることはできなかった。ルートヴィヒと悪魔の関係は、あくまで主従である。そこに疑問を挟むことはできない。それも契約のうちなのだ。
使い魔たるもの、僕であれ。
しかし、この慈愛や感謝ではありえないほどの動悸がどこから来るのか、ルートヴィヒには、この心臓が悪魔を求めているとしか思えなかった。
悪魔が熱を出すと、この心臓も変な雑音ばかりになってしまうし、悪魔が嬉しいとリズミカルに鳴る。
あくまはたいへん力がつよかったので、ずっとひとりだったのです。
それは、月のたいそう明るい夜でした。
しもばしらもしらかばも、たくさん立っている林の中で、あくまはいっぴきの子おおかみを拾いました。
子おおかみは、血をながしていました。
むれからはぐれてケガをしたのか、それとももしかしたら何かよわいところがあってむれそのものからはじき出されてしまったのか。
ともかく、血も半分凍り始めているほど、さむいさむい夜でした。
あくまはいいました。
「おれの使い魔になるか。そんなら助けてやらんでもねーぞ。代わりに……」
とがった爪で、かたい土とまざった血をほじり、あくまはぺろりとなめました。くらい色のべにを、くちびるにぬったようにのこりました。
くちびるがうごきます。
――ずっと。
マスクをかけた親子連れが気遣いながら出ていくのを見送ると、ルートヴィヒは伸びをした。
風邪患者が増えてきて、診療所はかなり盛況だった。病気の子どもがいないに越したことはないので、早く流行が収まってくれればいいが、やはりインフルエンザワクチンの仕入れをもっと増やすかドクターに確認しようかと口元に手を当てたところ、胸ポケットからパーカーの頭が現れた。
「兄さん。まだ仕事中だ」
「ぶー、今のが最後の患者じゃねーか。もう誰も見てねーよ」
「だが、6時までは就労時間だ。わかるか」
「おれさまたいくつー。かーまーえーよー!」
「あ~ほら。飴玉だ。これでもう少し我慢してくれ」
「お、さすがルッツ! 俺様の使い魔なだけはあるな。世界一の狼男だぜ」
グレープ味のキャンディーは、ポケットの中にいる「悪魔」の頭の大きさとあまり変わらないため、彼は包み紙ごと抱えながら、甘味を舐めている。虫歯になりそうだが、そこは人ならざるものだからか、今のところ問題はないらしい。
小さな手に小さな足、おまけに羽まで小さい。猫が吐きだした毛玉くらいしかないんじゃないか。
抱えるフォークもケーキ用の一番小さいサイズで、皿の上のものをつっつくことぐらいしか機能しないだろう。
「ルートヴィヒ」
診療所の主であるドクターに呼ばれた。彼はインテリが白衣を着て歩いているのを地で行く物腰で、もう帰ってもいいですよ、と告げた。
このあたりの看板娘ならぬ、看板看護師と評されるナースも、戸棚のカギを閉めながらにっこり笑う。
「ローデリヒ先生の言うとおりですよ。明日お休みを取るならなおさら ね! それにしても、ルートヴィヒさんが来てから、ここますます評判が上がったわねー。明日来る常連さんきっとがっかりしますよ」
「腕のいい薬剤師はどこも引っ張りだこですからね」
「おまけに、インテリオールバック属性だけどどこかワイルドさがあるっていうのが、玄人にはたまらないんですよハァハァ」
胸元で、おれさまのおかげだぜー!と呟く声にはルートヴィヒは反応しないでおいた。
一回反応してしまって、ドクターを青ざめさせ、ナースにはひどく口をつり上がらせてしまった失敗は繰り返したくない。何だか、両者に角や牙のようなものも見えた気がしたが、多分緊張が見せた幻覚だろうとルートヴィヒは思っていた。あの時は、働き始めてまだ慣れていないという言い訳も何とか立ったが、今になって見ると非常に苦しい。
ルートヴィヒとて、ドクターがのんびり屋のせいか、細かい部分を詮索してこない一方で、自宅から歩いて行ける範囲でこれほど待遇のいい職場は実質初めてであり、正直みすみすクビにされたくはない。
薬の知識はあまりなかったが、そこは胸の中の悪魔がいくらでも教えてくれた。学んでいくうちに持ち前の嗅覚でかなり理解できるようになり、一時この悪魔が調子を崩して自宅で留守番していた時でも問題なく働けるぐらいにはなっている。
それでも安心が欲しいのか――動悸・息切れに何とか的な――それはルートヴィヒもそれなりに生きてきてそれなりに動悸息切れを経験することはあるので否定はしないが、お守りのように胸に悪魔を抱えてしまう。
特に満月の前後になると。
「いい月ですね。申し訳ありませんがエリザベータ。タルティーニのCDをかけていただけませんか」
「わかりました」
「こんな赤い月の夜には、あの甘美なトリルのバイオリンソナタが、とても似合う」
何だか、ロマンチックな香りが二人の間に流れたので、ロッカールームにルートヴィヒは退散した。
白衣からシャツの胸ポケットに手のひらを介して悪魔を移してやると、ああ、やっぱり白衣よりお前の肉体に近くていいなぁとケセケセ笑った。
ロッカールームの鍵を閉めてルートヴィヒがため息をつくと、鏡の向こうには獣の耳と毛皮と尻尾を持つ異形が立っていた。
「このモフモフのまま外に出られるならコートいらねーんだけどなぁ」
「満月が過ぎたら、作ってやるからもう少しがまんしてくれ」
「作ってくれるのか! マジで!!」
牙が生えてますます笑うのが困難になりながらも、ルートヴィヒは精いっぱい穏やかな口元を保って、悪魔を見つめた。
「頼むから兄さん。今夜はあんまり刺激しないでくれ。変身が解けてしまう」
「仕方ねぇなぁ。帰るまで静かにしてやるよ」
姿を人にし、肉屋でケバブをおまけしてもらって、少しでも欲を抑えるために、不本意ではあるが頬張りながら、雪も降り出しそうな空の下を歩いて行く。
たくさんの車が寒さを切り裂きながら突進しては通り過ぎて行った。
アスファルトにあった砂利をうっかり蹴って、排水溝に落ち、水音がした。最後に遠くで山犬の声を聞いたのはいつのことだったろうか。この自慢の耳をもってしても聞こえてはこない。
ケバブサンドのちぎったのを摘まんでポケットの上で揺らすと、かぶりついてきた。もちもちの生地より青みのある手は、温かいものを食べても吐息は白にならない。
「ちょっと辛いか」
「いや、うめめ」
「染みはつけてくれるなよ」
やがて体温と腹がくちたのとで満たされたのか、胸ポケットが寝息を立て始めた。心臓に近い場所だ。ルートヴィヒはそっと手を置いた。悪魔が身じろぐ。小さな小さな賢くも愛らしくもすっかり小さく弱くなってしまった飛べない悪魔。
「兄さん」
こんな時、貴方の命を吸って動かされているこの心臓がひどく早打つ。
気がついたのはここ数十年のことだ。
年々体格が立派になるルートヴィヒに比して、悪魔は段々小さくなっていった。
見上げていた艶のある黒羽はやがて短くなりとうとうお飾りレベルになった。
問い詰めることはできなかった。ルートヴィヒと悪魔の関係は、あくまで主従である。そこに疑問を挟むことはできない。それも契約のうちなのだ。
使い魔たるもの、僕であれ。
しかし、この慈愛や感謝ではありえないほどの動悸がどこから来るのか、ルートヴィヒには、この心臓が悪魔を求めているとしか思えなかった。
悪魔が熱を出すと、この心臓も変な雑音ばかりになってしまうし、悪魔が嬉しいとリズミカルに鳴る。
作品名:Treat or Treatment 【aph独普】 作家名:かつみあおい