いっぽうそのころ
風避けになることもできない距離まで離れてしまっていた二人は、リタイアした京伏のスプリンターが遙か後方へ姿を消した頃になって追いついた。
今、のろのろと斜面を駆ける彼らを追いかけてくる者はない。追うべき背中は、既に見えない。
孤独だ。
と、泉田は思った。
勝負はまだ終っていない、けれど泉田の……泉田たちのそれはもう、終わったも同然だった。
エースクライマーの牽引に反応することのできなかった泉田たちは、後はただこのペースで二日目のレースを走り抜くしかないのだ。三日目のスタートを少しでも有利なものとするため、粉々に叩き潰され、地に落ちた王者の挟持を拾い集めて一縷の望みを繋ぐために。
それも、ときには必要なことなのだと頭で理解してはいた。インハイはまだあと一日あって、今は無理をして足を使うより、明日に備えた走りをする選択をしなければならない時だ。受けた屈辱も罵倒も、全て明日に利子をつけて返してやりさえすればいい……いや、そうしなければ、失われた誇りは二度と戻らない。だけど。
競うべき相手がどこにもいない。
泉田たちが今日これ以上順位を上げることはおそらく叶わず、そう思っているのは観客たちも同じだろう。同じ箱根学園の主将さえ。
誰にも期待されていない、誰と競うこともない、なのに足を止めることは許されない。
……こんなに孤独で、虚しいこと。
陽は、相変わらず強く照っているはずだった。黒い路面を陽炎が揺らしているし、振り仰いだ空は目が霞むほどに青い。一息ごとに吸い込む空気の流れは少しも体を冷やしてくれず、蝉たちも煩いほど鳴き続けているはずだった。晴れた夏の日は何も変わらない。
それなのに流れ落ちる汗も、ハンドルを握る指先もこんなに冷え切っている。鉛のような足が、まだ動くことの方がいっそ不思議だった。
『お荷物は、要らない』
振り返りもせず彼方へと消えた福富の言葉が、頭蓋骨の内側に反響している。それは怒りでも悲しみでも、失望でもない。そういった感情に昇華することさえできない衝撃は、泉田にとって物理的な打撃に等しかった。
何をどれだけ積み上げても、結局のところ走れなければ無意味で、切り捨てられるだけの存在なのだ。
それがレースだと……そういうものだと、わかっていたのに。
「真波、も少しペース上げろ」
「はい」
泉田の後ろについた荒北が、言葉少なにオーダーを告げる。疑問を抱く風でもなく、一つ下のクライマーは淡々と従ってスピードを早めた。気まぐれに吹き寄せる追い風にもほとんどブレることのない速度は、風を読むのに長けた真波が意図的にペースを保っているからだろう。
糸の切れた凧のように、どこか人を不安にさせる奔放さを持つ後輩はけれど同時に確かな実力の持ち主でもある。泉田たちを引くのに注力してさえいなければ、この男だけは多分あの瞬間、加速した東堂に遅れることもなかったはずだ。
前を行く真波の顔は、泉田からは見えない。インハイがはじまってからずっとその背の翼を畳んだまま、一年の彼が何を代わりに負っているのかはわからなかった。見えるのはただ安定したペダリングと、荒北のオーダーに応える感情の読み取れない返事だけ。
お前は、と。
叫びたかった。実際に喉元までせり上がる、吐き気にも似たその衝動を泉田は必死で飲み下す。真波、お前は平気なのか。疲弊したチームを引かされて実力の半分も発揮できず、同じクライマーの先輩には不意打ち紛いのチギられ方をして。それで平気なのか――お前は、荒北さんは、新開さんは。
「泉田、ペース落とすなペダル回せ!」
苛立ったような荒北の声が背中を叩くけれど、泉田には今のペースで脚を動かし続けるのがやっとなのだ。
――荒北さん、あなたは誰より福富主将に信頼されるアシストじゃなかったんですか。
――新開さんの力がチームに不可欠だと言ったのは、他でもない福富主将じゃなかったんですか。
――……ふたりは、ふたりとも、あなたたちと三年間ずっと一緒にやってきた仲間ではなかったんですか!!
一切の逡巡もなく、『お荷物』と。
言い捨てて、背を向けてしまえるような。
言われ捨てられることさえ、諾々と受け入れて残された義務のために走れるような。
チームの勝利というものがそんなにも重く、かさねてきた時間がそんなにも軽いなら……それを知らずにやってきて今、足を動かせなくなっている醜態が覚悟の足りなさ故だと言うのなら。
ああ、それなら自分は確かに、取り残されたこの四人きりの集団においてさえなお『お荷物』だ。
「泉田!」
走れない者に、価値はない。
泉田は唇を強く噛み締めた。嫌というほど思い知らされた言葉を、今度は一人、置き去りにされて味わうことになるのだろうか。最初から、ここにいる資格など持ち合わせてはいなかったのだと。
落とした視線の先には、とっくに空になってしまったボトルがある。
新開も、荒北も。
真波もまだ走っている。
彼らはまだ走れているのだ。
……泉田にはそれが、どうしようもない絶望だった。
チ、と盛大に舌を打つ音が聞こえた。
決して気の長い方ではない荒北が、速度を上げない泉田に業を煮やした音だ。
ならばそのまま、早く先へと進んで欲しい。置き去りにされてしまいたい。そうすれば、彼らの背中が見えなくなってしまいさえ、すればもう。
リタイア、の四文字が、頭の中をちらついて――離れなかった。
「すみません、荒北さん……先に。先に……行って、ください。僕は……」
「あァ? 泉田、今、何つった?」
「走れない、勝利の役に立たないメンバーは……要らない。切り捨てるべき荷物。そう……でしょう。だから、」
京都伏見が、そうしたように。
福富が、東堂がそれを選んだように。
「僕は、もう……」
――切り捨てて、行けばいい。
今、のろのろと斜面を駆ける彼らを追いかけてくる者はない。追うべき背中は、既に見えない。
孤独だ。
と、泉田は思った。
勝負はまだ終っていない、けれど泉田の……泉田たちのそれはもう、終わったも同然だった。
エースクライマーの牽引に反応することのできなかった泉田たちは、後はただこのペースで二日目のレースを走り抜くしかないのだ。三日目のスタートを少しでも有利なものとするため、粉々に叩き潰され、地に落ちた王者の挟持を拾い集めて一縷の望みを繋ぐために。
それも、ときには必要なことなのだと頭で理解してはいた。インハイはまだあと一日あって、今は無理をして足を使うより、明日に備えた走りをする選択をしなければならない時だ。受けた屈辱も罵倒も、全て明日に利子をつけて返してやりさえすればいい……いや、そうしなければ、失われた誇りは二度と戻らない。だけど。
競うべき相手がどこにもいない。
泉田たちが今日これ以上順位を上げることはおそらく叶わず、そう思っているのは観客たちも同じだろう。同じ箱根学園の主将さえ。
誰にも期待されていない、誰と競うこともない、なのに足を止めることは許されない。
……こんなに孤独で、虚しいこと。
陽は、相変わらず強く照っているはずだった。黒い路面を陽炎が揺らしているし、振り仰いだ空は目が霞むほどに青い。一息ごとに吸い込む空気の流れは少しも体を冷やしてくれず、蝉たちも煩いほど鳴き続けているはずだった。晴れた夏の日は何も変わらない。
それなのに流れ落ちる汗も、ハンドルを握る指先もこんなに冷え切っている。鉛のような足が、まだ動くことの方がいっそ不思議だった。
『お荷物は、要らない』
振り返りもせず彼方へと消えた福富の言葉が、頭蓋骨の内側に反響している。それは怒りでも悲しみでも、失望でもない。そういった感情に昇華することさえできない衝撃は、泉田にとって物理的な打撃に等しかった。
何をどれだけ積み上げても、結局のところ走れなければ無意味で、切り捨てられるだけの存在なのだ。
それがレースだと……そういうものだと、わかっていたのに。
「真波、も少しペース上げろ」
「はい」
泉田の後ろについた荒北が、言葉少なにオーダーを告げる。疑問を抱く風でもなく、一つ下のクライマーは淡々と従ってスピードを早めた。気まぐれに吹き寄せる追い風にもほとんどブレることのない速度は、風を読むのに長けた真波が意図的にペースを保っているからだろう。
糸の切れた凧のように、どこか人を不安にさせる奔放さを持つ後輩はけれど同時に確かな実力の持ち主でもある。泉田たちを引くのに注力してさえいなければ、この男だけは多分あの瞬間、加速した東堂に遅れることもなかったはずだ。
前を行く真波の顔は、泉田からは見えない。インハイがはじまってからずっとその背の翼を畳んだまま、一年の彼が何を代わりに負っているのかはわからなかった。見えるのはただ安定したペダリングと、荒北のオーダーに応える感情の読み取れない返事だけ。
お前は、と。
叫びたかった。実際に喉元までせり上がる、吐き気にも似たその衝動を泉田は必死で飲み下す。真波、お前は平気なのか。疲弊したチームを引かされて実力の半分も発揮できず、同じクライマーの先輩には不意打ち紛いのチギられ方をして。それで平気なのか――お前は、荒北さんは、新開さんは。
「泉田、ペース落とすなペダル回せ!」
苛立ったような荒北の声が背中を叩くけれど、泉田には今のペースで脚を動かし続けるのがやっとなのだ。
――荒北さん、あなたは誰より福富主将に信頼されるアシストじゃなかったんですか。
――新開さんの力がチームに不可欠だと言ったのは、他でもない福富主将じゃなかったんですか。
――……ふたりは、ふたりとも、あなたたちと三年間ずっと一緒にやってきた仲間ではなかったんですか!!
一切の逡巡もなく、『お荷物』と。
言い捨てて、背を向けてしまえるような。
言われ捨てられることさえ、諾々と受け入れて残された義務のために走れるような。
チームの勝利というものがそんなにも重く、かさねてきた時間がそんなにも軽いなら……それを知らずにやってきて今、足を動かせなくなっている醜態が覚悟の足りなさ故だと言うのなら。
ああ、それなら自分は確かに、取り残されたこの四人きりの集団においてさえなお『お荷物』だ。
「泉田!」
走れない者に、価値はない。
泉田は唇を強く噛み締めた。嫌というほど思い知らされた言葉を、今度は一人、置き去りにされて味わうことになるのだろうか。最初から、ここにいる資格など持ち合わせてはいなかったのだと。
落とした視線の先には、とっくに空になってしまったボトルがある。
新開も、荒北も。
真波もまだ走っている。
彼らはまだ走れているのだ。
……泉田にはそれが、どうしようもない絶望だった。
チ、と盛大に舌を打つ音が聞こえた。
決して気の長い方ではない荒北が、速度を上げない泉田に業を煮やした音だ。
ならばそのまま、早く先へと進んで欲しい。置き去りにされてしまいたい。そうすれば、彼らの背中が見えなくなってしまいさえ、すればもう。
リタイア、の四文字が、頭の中をちらついて――離れなかった。
「すみません、荒北さん……先に。先に……行って、ください。僕は……」
「あァ? 泉田、今、何つった?」
「走れない、勝利の役に立たないメンバーは……要らない。切り捨てるべき荷物。そう……でしょう。だから、」
京都伏見が、そうしたように。
福富が、東堂がそれを選んだように。
「僕は、もう……」
――切り捨てて、行けばいい。