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いっぽうそのころ

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「――自惚れてんじゃねぇぞ、ボケナス」
「……!」

獣が、低く呻るような声だった。泉田は思わず身を竦ませる。

「な、何、が……」

牙を剥いた狼の気配を背に受けながらも、つい反論が口を突いて出るのは――悪い癖かも知れなかった。納得のできないことを、納得のできないまま飲み下せるほど泉田の心には余裕がない。

自惚れ? 自惚れだって?
泉田は、聞いた自分の耳を疑う。お前には共に勝利を目指す価値がないと、言われたも同然の切り捨てられ方をして一体何に自惚れを抱くことなどできるというのだ!

「何が自惚れだって言うんです!」
「全部だよ。おい真波ペース下げんな! そのまま引け!」
「……はぁい」
「荒北さん、僕は、」
「おめーがどれだけ自分のツキに自信があるのか知らねーが、使えねぇヤツがレギュラーに選ばれるラッキーなんざありえねー、っつってんだ」
「っ、な……」

言葉だけを追いかければ、それは逆説的に冗談めかして泉田を嗜めるものとも受け取れたかもしれない。
聞いたこともないほど静かな声が、その印象をまるで違ったものに変えていた。四人がペダルを回す音に掻き消されてしまいそうな、にも関わらず確かな重みを伴って頭に昇った血を引き下げるような。常の不真面目さとも、ゴール前で見せる野犬のような獰猛さとも違うそのひややかな声。泉田は、一瞬、それが本当に荒北のものか疑った。

「ハコガク自転車競技部を、福ちゃんを、舐めんな。ガキ」

ひやりとした汗が、背中を流れる。
その冷たさは泉田の頭を少しだけ冷静にさせたが、到底納得はできなかった。

荒北の、言わんとしていることがわからないわけではない。箱根学園自転車競技部の部員は50人を超える。いずれも、他の学校ならエースと呼ばれただろう実力者たち……箱根学園においては、一度もインハイに出場せず卒業する数の方が多い。
この道を、走っているだけで泉田は『その他大勢』の部員達を踏み台にしている。それを否定するのはつまり彼らを否定することだ。勝利のため、他の全てを切り捨ててきた福富のいたみを否定することだった。

けれど。ならば、尚更に。
あの言葉は、一体何だ。

「だけど、福富さんは確かに、」

――『お荷物』、と。

「……っ、ハハ」

言い募ろうとした泉田の耳に、
酷く掠れた笑い声が聞こえたのはそのときだ。

「靖友お前……寿一も。……ちょっと、言葉が不自由すぎるだろ……」
「!? しんか」
「うるっせえお前は黙ってろ! 泉田、テメェも振り向くな!」
「俺も、できればそうしたいんだけどな……お前らがあんまり、」

悪いな、と、相変わらず笑いを含んだ声で謝る新開に。
荒北はもう一度盛大な舌打ちをして、それ以上は何も言わない。

「お荷物は要らない。お荷物なんていない。どっちも本当……ってことはつまり、この四人はまだ必要だから――ちゃんと追いついて来い、ってことだ」
「…………え、」

相変わらず、新開の呼吸は荒い。一言一言を区切るように放つのは、強調する意図のためではない。ひゅうひゅうと喉の鳴る音が、声に紛れて耳に届く。
二日目のスプリント勝負を、走り抜いた疲労を。敗北の重さを抱えたまま。
緩やかとはいえ苦手とする登り坂で、脚も肺も……心臓だって悲鳴を上げ続けているはずだった。

なのにどうして――。

「京伏がいたから、はっきり言わなかったのか……ただ寿一の言葉が足りなかっただけか……俺は、後の方だと思うけど。なぁ、靖友」

どうして  、

「ケッ。そんなん、言われなきゃワカんねー奴の方がどうかしてんだよ」
「へぇー、そうだったんですか」
「真波ィ! てめぇはもうちょっと空気読め!」

どうして――笑えるのか。

「だ……だって。それならどうしてあの二人は先に」
「寿一と尽八が出れば、京伏は勝負に出ざるを得ない」
「……、!」
「勝負しなきゃあ山岳リザルトは二人のモンだ。それじゃ連中の『作戦』とやらが成立しねー」
「リザルトを争えば、疲労は溜まる。ついでに彼らは――俺たちの気持ちが完全に折れたと思ってる。絶対に、追いつかない……ってな」
「上等じゃねえか」

肉食の獣が牙を剥くようにして、多分、笑っている。
振り向かなくても、泉田にはそれが、わかった。

「絶対、が崩れた時ほどダメージはでかい。そう言ったのはあの御堂筋気取りだったよなァ?」
「……あなたたちは」

諦めた、わけでは――なかったのか。
この人たちは。

ゴールまでもう10kmを切った。
ファーストリザルトも、山岳リザルトも奪われた。
チームは分断し、強敵は遥か先の道へと消えた。
それでも、まだ勝負は……今日のリザルトは、見えていないと。


譲るつもりなど欠片もないと。そう、言っているのか。この状況で?


「思い出せよ、泉田。昨日……田所は、何でお前に勝てたんだ?」
「…………新開、さん」

どうしてお前は負けたのか、ではなく。
その訊きかたが、いかにも新開らしくて泉田はまた泣きそうになった。田所の、力強い声が甦る。――負けて、汚れたということは。戦ってきたということだ。そしてまだ、戦える。打ち負けた刃は毀れて、けれど、折れてなどいない。

走れ、と口にしたのは、荒北だったか、新開だったか。
思い切り拭って地に捨てた透明な雫は、汗か涙か。
どちらでもいい、と泉田は思った。どちらでもいい。そんなことは、どうでもいい。

振り向くな。ペダルを回せ。



泉田はただ真っ直ぐに前を向き、強く強く両脚に力を込めた。
作品名:いっぽうそのころ 作家名:蓑虫