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泡沫のあわい

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 意識を取り戻した時には総てが終わっていた。
 視界に映るのは屍の山、びちゃりと水滴の跳ねる音がそこらじゅうで響き、もはや呻き声ひとつあがらない死に絶えた世界で。
 陣羽織を真っ赤に染め上げ、臓物混じりの汚泥を被り、斑に全身を穢した男が天を仰いで佇んでいる。
 その横顔の澄んでうつくしいことこそが、家康を絶望させた。

 雨がぽつりぽつりと地面を穿ち、瞬く間に驟雨へと姿を変えた。
 けぶる視界の中で、やはり男は変わらぬ体勢のまま立ち尽くしている。立ちあがった家康に眼を向けることもなく、散りばめられた死者たちに視線を落とすこともなく。その頬を伝う雨すらも、こびりついた赤と汚泥を洗い流すことはない。
 家康は一歩、二歩とふらつきながら足を進める。
 そうして―――咆哮をあげながら、三成へと飛びかかった。殺戮の限りを尽くし、放心したような男の首筋を片手で掴み、そのまま地面へ叩きつける。三成が飛び起きる前にその上に馬乗りになり、家康は叫んだ。
「どうしてだ!なぜわからない!」
 血を吐くような絶叫だった。
「生きているんだ。生きていたんだ。みんなお前と同じく生きていたのに!お前が秀吉公を想うように、彼らにも想う者がいるのに!どうしてそれがわからないんだ……!」
 言いながら、家康は知っている。彼はきっとこう思っているのだ。
 秀吉を他の輩と同列に語るな、と。
 ざあざあと雨が降る。家康の髪も頬も濡れそぼち、水滴が男の上に落ちる。ぱたり、ぱたりと続けざまに落ちる。
「どうしてなんだ。三成、お前に他人は要らないのか。秀吉公以外の一切が要らないのか。喜びも、哀しみも、怒りもすべて秀吉公にしか繋がらないのか。なあ、他の誰にも、何も与えず何も与えられずに生きていくのか、お前は、それじゃああまりに―――お前はあまりに」
 家康は顔を歪めて吐露した。
「寂しいじゃないか……!」

 三成は自分の上で泣き喚く男の顔を何ら表情も変えぬまま見上げた。男の声は、言葉に変換するのに時間がかかった。一軍をただひとりで殲滅した三成はさすがに疲れ果てている。じっとその男を見上げながら、ゆっくりとなぞりあげるようにして、その言葉を追って行く。
 そうして気付いた。
 だから答えた。
「私ではない」
 馬鹿馬鹿しい。幾度も思った男への感情を今も抱きながら、三成は言い放つ。
「それは貴様のことだろう」
 一瞬、雨に濡れた男は幼子のような顔をした。
 三成はその隙をついて腕を伸ばし、家康の横面を叩くようにして一気に体勢を引っくり返した。反対にその上に跨りながら、地面の上で固まった男の胸倉を掴み、牙を剥いて告げる。
「貴様が愚にもつかない考えを掲げた根本がそれか。
 ああ、私は何も要らない。そうだ、秀吉様だけでいい。私はあの御方のために生きている。あの御方の為に死ぬだろう。それ以外の何も必要ではない。
 寂しいのは貴様だろうが。
 貴様のその眼は何だ、家康。怯懦の眼だ。脆弱な思考だ。秀吉様の御威光に臥しながら、秀吉様の御為に振るうに相応しい力を持ちながら、なぜ貴様はいつまでもそんなものに囚われる!?」
 三成は他の誰にも、家康自身にも一度たりとて口にしたことはないが、この男を比類なき力を持つものと認めていた。認めていたからこそ、出会ったその日からずっと、その力を秀吉のためだけに捧げようとしない家康に苛立ちを感じ続けてきたのだ。家康が三成に絆を語るのと同じ回数だけ、三成もまた己の在り方を家康に刷り込もうとした。
 貴様も豊臣の一員だ、秀吉様のために生きろ。
 互いに互いの在り方を否定しながら、突き放すのではなく己のそばへ引き寄せようとした点において、ふたりは確かに同じものであった。
「余計なことを考えるな。家康、貴様は何も考えずにただ膝をつき、秀吉様へ従えばそれで良い。そうすればあの御方がこの国の泰平を実現させる」
 家康は己を地面に押しつける男の、迷いない顔を見上げた。あの覇王のためだけに生き、そして死にゆくのだと、それに何の疑いもないのだと言い放った男を。そして力なく言った。
「……その末の未来がこれか。三成。これが、この世界がお前たちの目指す泰平か……」
 答えを、知っている。
 三成は緩慢な動作で視線を辺りに飛ばした後に、ふと恍惚を浮かべた。
「ああ、……安らぐな。秀吉様に反する者は、すべて跡形もなく滅された。心地よい場所だ……」
 雨が降っている。白く染まる視界の中で、男がわらう。家康はその笑みの曇りなく清冽なことを、諦観と共に認めた。
 寂しいのはお前だと、眼の前の男は言った。それは家康の胸を抉る事実だった。
 お前に手が届かないのが、寂しい。
 昔、遠い昔に、二度と弱音は口にすまいと誓ったはずであったのに、家康はよりにもよってそんな言葉でこの相手を詰った。同じ軍に身を寄せるようになった日から、相手の頑なな心をこじ開けようと苦心していた家康は、いつのまにか同じ分だけ自分を明け渡していたのだ。
 なぜだろうな。お前の前では、ワシは箍が外れるようだ。
 それを絆と呼んで、育てたがった家康の我儘の果てが、二人以外に生きるものなど存在しないこの世界ならば。
 家康の目指す泰平は、それを断じて認めない。


 三成。
 ワシは、お前と共にいきたかった。

 友になりたかったのだ。


作品名:泡沫のあわい 作家名:karo