泡沫のあわい
音に続けて凄まじい熱風が吹き抜け、家康は咄嗟に片腕で顔を庇う。辺りの木々が折れんばかりにしなり、轟音の反響が耳の奥で木霊した。家康は瞬時にその音を理解した。
とてつもなく巨大な、砲撃だ。そしてこれは豊臣のものではない。
家康の視界の先で、同じく風に抗いながら立ち尽くした三成の背にも、緊張が張り詰めたのがわかった。
「……つ…りさま、三成様!」
轟きわたる余韻が途切れた瞬間に、三成の名を呼ぶ配下の焦った声が届く。それに耳を傾けた二人の元へ、伝令が慄く声音で告げた。
「敵軍が本陣へ向けて砲撃!――秀吉様が、傷を負われ…!」
まさか、と。家康が思わず口にした瞬間には、すでに三成は駆け出していた。
家康が本陣にたどり着いた時、三成は秀吉がいる陣幕を前に立ち竦んでいた。硬質な後ろ姿は声をかけることすら許さない。さらに三成の前方には幾人もの将が集まり、人垣が出来ている。まさかよほどの重傷かと思い、家康は足早に総大将の陣幕へと近づいた。その際に三成の横を通り過ぎても、三成はぴくりとも動かぬままだ。その顔は白く青く、瞬きもせぬ人形のようであった。気がかりではあったが、今は秀吉公の様子を確認するのを優先するしかない。
だが人垣を越えた先にいた覇王は、地に倒れ伏しているわけでもなく、全身から憤怒を立ち昇らせながら両腕を組んで前方を睨み据えていた。
「―――秀吉公、お怪我は」
それでも確認のため家康が問いかければ、重く威圧的な視線を向けられる。その右腕の籠手が崩れ、露出した肌が火傷と裂傷を負っていることに気付いたが、ひと目で軽傷と知れた。家康はそれを見てとって、ほうと安堵の息を漏らした。
「ご無事で何より」
「大事ないわ。……湧いた羽虫を潰したまでよ」
その口ぶりによると、秀吉は本陣を狙った砲弾を素手で跳ねのけたのだろう。やはり豊臣の覇王、極めて強固な肉体は人間とは思えぬと畏怖を覚える半面、家康は場にそぐわないながらつい苦笑すら浮かべてしまう。
しかしこの本陣が奇襲を受けるとは、よほど巧みに裏をつかれたらしい。前線に軍師がいればどうであったかと、家康は考えずにはいられなかった。右腕の不在によるわずかな綻びを突かれたか。
――では左腕は何とする?
思い至った瞬間に、後方から空気を揺るがすどよめきが起こった。
何事かと振り返った家康の視界に、色を失くしたままの三成が幽鬼のようにゆらりと歩み寄るのが見えた。ようやく動き出したその男の眼は爛々と見開かれ、秀吉の姿を、そのかすかに爛れた右腕を凝視していた。
ざわりと家康の背筋が総毛だった。
「……秀吉様」
いかなる感情も排除した、冷たく平坦な声音がその唇から洩れる。凍りついているのは家康だけではない。その場に直面したすべての者が、三成が放つ途方もなく禍々しい気配に、心臓を丸ごと掴まれたように立ち竦んでいた。誰かの喉が鳴る音が、異様に大きく響く。ただひとり、彼の神だけが、動じぬ姿でその場に君臨している。
「秀吉様。私に、」
三成は鬼気迫る異様な気配を隠しもせずに、神に乞うた。
「私に―――奴らを斬首し斬滅する許可 を」
暗い憎悪の纏わりついた声だ。
家康は咄嗟に制止の声をあげようとして、ひくりと喉を痙攣させるしかできなかった。その一瞬の間に、覇王は重々しく告げてしまった。
「許す」
三成は、唇の端をつうと引きあげると、次の瞬間誰の眼にも止まらぬ速さで姿を消した。戦場へ舞い戻ったに違いなかった。
一挙に硬直の解けた家康は、勢いよく秀吉を振り仰いだ。その眼には確かに怒りに似た激情が迸っていた。
「秀吉公、貴方は……!三成がどうするか、わかっていながら!」
「あれの忠義を受け取ったまで」
覇王は家康に眼を向けた。何の感慨もない、揺るぎない覇者の瞳で問う。
「ほどなくこの戦は終結しよう。何か異論があるか」
家康はぎり、と唇を噛み、何も言わずに身を翻した。
折り重なる屍の山、散り散りに切り刻まれた肉片、ぶちまけられた赤い臓物、非業の断末魔を浮かべた顔の数々。惨殺とはまさにこれを言うのだろうという光景が広がっていた。
どれほど進めど眼に映る景色は同じだ。鼻をつく臭気もまったく変わらない。
家康はいつしか知らぬうちに息を荒げながら、眩暈を抑えて終焉だけが支配した戦場を駆ける。
つい、さきほど。たった数刻前に。
彼はその刃に躊躇いを乗せて、奪い尽くしてきた命をそっと残して見せたのだ。
それはまるで幻でしかなかったのだと思い知らせるような光景に、家康は胃の腑がせり上がるような苦しさを覚えて呻いた。その耳に、微かな物音が届く。悲鳴と残響だ。はっと顔をあげた家康は萎えそうな脚を奮い立たせた。
そうして駆け続けた視界の先に、やっとその後ろ姿を捉えた。翻る陣羽織はすでに緋に濡れている。三成、と叫ぼうとした途端に、その男の背がふっとかき消えた。姿は見えぬまま、さらなる前方で斬撃の音と阿鼻叫喚の悲鳴が響く。
家康の脚では、今の三成へ追いつくのは難しい。そうと判断した家康は、己の拳に全力を込めて宙を撃ちつけた。ごうと音をたてて撃ち放たれた空気の塊が、今にも一人の首を刎ねようとしていた三成を狙う。振り返りもせずにその眼に見えない砲撃を避けた男は、再び瞬時に姿を消し、
「邪魔をするな!」
怒号と共に家康へ刀を振るった。咄嗟に拳の背で刃を受け止める。ぎん、と鈍い音が鳴り響いた。
「家康、貴様!どういうつもりだ!」
三成は紛れもない憎しみを眼に湛えて、家康を罵った。その眼がまざまざと映す狂気にすら近い激情に、家康の中で警鐘が鳴り続ける。
「駄目だ、三成!憎しみでは駄目だ―――お前が、還ってこれなくなる……!」
「この期に及んで意味のわからぬ戯言を!秀吉様の御身に傷をつけた輩などすべて死に絶えねば許さない!貴様も、私の邪魔をするならばいっそこの場で死ね!」
再び刃を走らせようとする三成を必死に留めようとして、家康はその腕を掴む。両者の力が均衡して場が硬直するかと思えたその瞬間に、
ぞくりと家康は身を震わせた。
反射的に振り返る。その視界に映るのは、三成が言ったようにすべてが死に絶えた赤く沈黙した世界だ。だが、それよりもさらに向こう、眼にも見えない後方から、異様な圧迫感が家康を貫いていた。
―――秀吉、公。
家康の全身へ目がけて発せられた覇気は、すべて見ているのだと通告していた。今ここで家康が、秀吉のために刃を振るう三成と対峙することは、すなわち豊臣に反するということ。
そうと断定した瞬間に、覇王は徳川軍の駆逐へ乗り出すだろう。そして将が不在のままに、徳川軍は自軍の中で殲滅される。
思い知らされた途端にわずかに腕を緩ませた家康の隙を、三成が見逃すはずもない。三成は不自然に動きを止めた煩わしい男の首筋に、瞬時に刀の背を打ち込んだ。鋭い打撃音が響く。
急所への打撃に家康の全身がぐらりと揺れる。意識がふっと遠のいた。それでも明滅する視界の中で、冷たく己を見据える男へ向けて、もがくように手を伸ばし―――