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オレンジデー

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 ふわり…。
 プトレマイオスの微重力の通路から移動して、ティエリアは談話室の入口に足を下ろした。シュンと軽いエアー音と共にドアが開き、中に入ると予定通りアレルヤが座っているのが見える。
 予定通りというのは、グリニッジ標準時間19時30分のこの時間、アレルヤのスケジュールは既にオフ。そして、アレルヤより若干遅くまで予定が入っていたティエリアと談話室で合流し、一緒に夕食を取ることになっていたからだ。
 ティエリアにとって食事などマイスターとしての体力維持に必要最低限のカロリーと栄養が摂取出来るのであれば特別必要なものではなかったが、最近は比較的ちゃんと食べるようになった。
 それに至るには、必要ない、携帯食で十分だと主張するティエ リアを、アレルヤが何度もしつこいぐらいに誘い続け、ティエリアが折れたという経緯がある。尤もその経緯も二人が恋人という関係になって、ティエリアが一緒に食事をする行為が好ましいと感じるようになってから効果が出たものだけれど。
 そんな事情もあり、今晩もアレルヤから取り付けた約束である。そして、一度した約束は余程のことがない限り違えないのがティエリアだ。だから、約束の時間にちゃんと談話室にティエリアは来たのだが。 
 肝心のアレルヤは何かを一心に見ているようで、ティエリアが来たのにも気付かなかった。 
 アレルヤから誘ってきたのに、消してもいない自分の気配に気付かない様に、ティエリアはムッとして眉を潜める。
 いっそこのまま無視を決め込み、一人で食堂に行ってしまおうか。もしくは部屋に戻ってしまおうか。食事など部屋にある携帯食でも事足りるのだ。
 勿論悪いのは無視したティエリアではなく、気付かないアレルヤなのだと、かなり本気でそう考えて。けれど常ならば気配に聡く、直ぐに柔らかい笑顔を向けるはずのアレルヤがティエリアに気付かないなんて珍しい事例だ。
 何をそんなに熱心に見ているのだろうかと、他のクルーなら本当に無視しただろうけれど、他ならぬアレルヤかと思うと気になってしまった。
 彼の事だ。大方大好きと豪語して止まないマルチーズや小型犬、もしくは何かしらの可愛いものの写真集かカタログか。
 ティエリアはそう予測して、今度は意識的に気配を消してアレルヤの背後に近付き、そっと手元を覗き込む。しかし、その予想に反して、ティエリアの深紅の瞳に飛び込んだのは可愛らしい犬などではなく、菓子のレシピ本だった。
(…なぜ、レシピ?)
 アレルヤの料理や菓子作りの腕前は、プトレマイオスのクルーなら誰でも知っているが、贔屓目なしでかなり良い。最近では専らティエリア中心だが、以前は時折何かを作ってはクルー達に振る舞っていた。
 だが、彼がキッチンに立っている時、傍らにレシピが置かれていた事は無かったはずだ。少なくともティエリアの知る限りでは無いと言い切れた。レシピを完璧に記憶しているのかもしれないが、それだけでなくアレルヤの料理には更に一手間も二手間もかけた工夫がなされていた。ティエ リアは料理に明るくないので、この辺はロックオン・ストラトスやスメラギ・李・ノリエガからの情報だが。
 そして、アレルヤが現在見ているのは、マドレーヌ等の焼き菓子系統。
 過去何度かテーブルに並んだそれらをティエリアも目にしているのだから、今更レシピを確認する必要などないだろうと思う。なのに、当のアレルヤはページを進めるでもなく真剣にブツブツと呟いてみたり唸ってみたり。
 百面相としては面白いし、なかなか興味深い。けれど、いくら気配を消したとはいえ、これほどに接近しているのに、いまだに自分に気付かないとは。 
 わざとやっているのでは無いだろうかと、疑いたくなるような集中力だ。それ自体は褒め讃えるべきかもしれないが、無防備というかプトレマイオスの中とはいえ油断が過ぎる。元々聡いんだか鈍いんだか判らない部分がある男だが、この鈍さは万死に値するに違いない。
 全く気付く気配のないアレルヤに焦れ、疑問を明確にしたい欲求が加わって、ついにティエリアが切れた。
「アレルヤ・ハプティズムッ!」
「ぅわあっ! は、はいっ!」
 突然名を耳許で呼ばれ、アレルヤは頓狂な声を上げて振り向く。が、わたわたと慌てながらも、見ていたレシピ本を背後に隠すことも忘れなかった。
 尤も隠したところで、ティエリアは一部始終、隠す瞬間までも見逃しはしなかったけれど。
「ティ、ティエリア。早かったんだね」
 早かっただと? 
 もっと早く――時間的には約束の時間丁度だった――からティエリアは来ていたのに、アレルヤがぬけぬけとそんな事をいうものだから、どれだけ集中していたんだと思う反面、ティエリアは美しい柳眉をぴくりと上げた。言うまでもなく、機嫌は一気に下降線を描く。
「…とうの昔に来ていたぞ」
「え、そ、そうなの? ごめんね、気付かなくて」
「……それより、アレルヤ」
「なあに?」
「何を隠した?」
 本当は何を隠したかなんてきっちり判っているけれど、アレルヤが隠した、アレルヤに隠されたという事実が妙に腹立たしくて、ティエリアは今度は眦をきりりっと上げた。
(バレてる…よねぇ、この表情じゃ) 
 ティエリアの表情は、既に知っていて敢えて質問しているのだ、とアレルヤが悟るには足るもので。表情ばかりでなく、隠し事は許さないと言外にしっかり含んだ声に、これ以上隠していると厄介な事になると判断して、アレルヤは降参とばかりに両手を上げた。
 当然背後に隠したレシピ本は、動かぬ証拠としてティエリアの前に提出する事になる。
「レシピ本だな。なんで隠した?」
「え…えーと…」
 新しいお菓子を考えてたんだ…なんて言い訳をしても、恐らくティエリアは誤魔化されてはくれないだろう。 
 アレルヤとしては誤魔化されて欲しいのだけれど、そんな淡い期待は十割方無駄なのは明白。それくらいは声を聞くだけで判る。それどころか不機嫌がこれ以上になったら、口すら聞いて貰えなくなるかもしれない。期間もどれくらい続くか、見当が付かないのだから恐ろしいことこの上ない。
(本当はサプライズにしたかったんだけどなぁ)
 ティエリアに声を掛けられるまで気付かなかったなんて、完全に自分のミスだ。夢中になりすぎた自分に、アレルヤは舌打ちをした気分だった。
 しかし、この事態を招く原因となっているものの前に、喧嘩なんて絶対したくないのも事実だったので、アレルヤはそっと溜息を吐きつつ口を開いた。
「えーっと…オレンジデーって知ってる?」
 少しばかり言葉を濁してアレルヤが言うので、ティエリアは己の記憶を探ってみる。すると、数年前に知った事柄の関連事項にその言葉を見付けた。
 あれはアレルヤと恋人になってから最初のバレンタインだったか。女性クルーが騒いでいるので何事だと思い調べたのだ。記憶が正しければ…
「……1994年に経済特区・日本の民間団体が言い出した日だったか」
「うん、そうなんだけどね…」
 間違いではなく、成り立ちとしては限りなく正しいのだけれど、重要なのはそこではなくて。でも、その色気の欠片もない覚え方が余りにティエリアらしくて、アレルヤは思わず苦笑した。
作品名:オレンジデー 作家名:瑞貴