夜になると、彼は
夜になると、彼は
*
1.
晴れた空に昇る太陽の光が、カーテンの隙間からシーツの上を照らしていた。窓の外から聞こえる、鳥のさえずりが心地良い。
まだまどろみを貪ろうとする意識を押し退け、重たい瞼をそっと開くと、ナイト・テーブルに置いたデジタル時計は、“05:27”を示していた。ドイツは横になったままテーブルへ腕を伸ばし、目覚ましのスイッチを切り、大きく息を吐いて、首を左右に傾けて骨を鳴らすと、ようやくむくりと起き上がった。日頃アラームの鳴る時刻は六時ちょうどである。いつもより少し早い朝だ。
窓を開けると、朝のさわやかな風が、ドイツの前髪を揺らした。外の空気を肺いっぱいに吸い込むと、若い芝生の匂いを感じ、白い鼻翼が微かに膨れた。刈られたばかりの草の匂いである。
良い風が吹いているな、と思い窓の外に目をやると、ドイツはまだ生え揃わぬ芝生の上にちょこんと腰を下ろす、愛らしい小鳥を見つけた。黄色い羽毛は、青々とした芝生に良く映えた。窓から小鳥までは数メートルほど隔たっていたのだが、その距離からでも、つぶらな黒い瞳が、何かもの言いたげにこちらをじっと見つめているのが、ドイツにははっきりとわかった。
先ほど聞こえてきたさえずりは、どうやらこの小鳥のものらしい。小鳥はドイツと目が合うと、己の歌声を自慢げに披露した。その姿に思わず笑みを一つ零すと、まだあどけないその歌声に、ドイツは目を瞑り、耳を傾ける。それはドイツの郷愁を煽るような、美しいさえずりだった。
小さなコンサートが終わりリビングへ向かうと、カーペットの上で尻尾をぱたぱたとゆらしていた三頭の犬が主人の姿に気付き、足元へと駆け寄ってきた。ドイツは一頭一頭にきちんと目を合わせて朝の挨拶を交わす。挨拶を終えると、そのうちの一頭に目で合図を送った。すると犬は凛々しい声で“Ja“と鳴き、ゆったりとした足取りで玄関へと向かった。ドイツはキッチンへ向かい、棚からドッグフード、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ぴかぴかに磨かれた銀の皿の上に注いだ。彼が戻ってくる前に、朝食を用意しておこうと思ったのだ。
ドイツが彼らの食卓を彩っているその間、二頭の賢い犬は大人しくお座りをして、主人の合図を待っている。
ちょうど三頭分の朝食を用意し終えた頃、爪がフローリングと擦れる音がして、ドイツは音の鳴る方へと顔を傾けた。その音は、口にビニール袋に包まれた新聞を咥えた彼が、早く褒めてほしいと、主人の元へ戻ってくる音である。
新聞を受け取ったドイツは、“Danke.”と頭を撫でたあと、彼らに目線で合図を送る。三頭ともにサインが行き渡ると、彼らは自分の食器に食らいついた。よほど腹が空いていたのだろう。ドイツは彼らの食事の風景をしばし見守っていたが、やがて自身も空腹を覚えると、キッチンへ向かった。
冷蔵庫の中身を確認しつつ、しばらく何を作ろうかと首を傾げていたが、ふと今日が火曜だったことを思い出すと、ミルクとコップを手に取って、リビングへと戻った。毎週火曜日は、近所のパン屋で買う、焼きたてのパンがあるはずだ。
テーブルの上には、想像していた通り、焼きたてのパンがバスケットに詰まっていた。ライ麦の発酵した香りと温かさが、この部屋一面を満たしている。
席に着いてミルクを注ぐと、ドイツはバスケットの中にあるプンパニッケルを取った。ナイフで食べやすい量に切り分ける。パンはまだ温かかった。チーズでも載せればさらにうまそうだと思っていると、何故かちょうど目の前に、まだ未開封のチーズがあった。カマンベールの写真がプリントされているその丸い箱は、彼が好んで食べているチーズそのものである。訝しげな目付きで注視するも、箱の隅に印字されている賞味期限の日付は、まだしばらく先であった。
――一体いつから置いてあったのだろう。いつもならすぐ冷蔵庫にしまうはずなのだが…。
チーズを手に取ると、想像していた以上にひんやりとしていて、ドイツは驚いた。それは今さっきまで冷蔵庫に入っていたかのような冷たさを持っていた。蓋を開け銀紙を開くと、箱を鼻の辺りまで持ち上げた。匂いは至って普通のチーズである。
味も確かめようかと思ったが、それは流石にあやしいので止めておいた。これは処分しておこう。ドイツはチーズの蓋を閉じ、テーブルの下にあるごみ箱の中に放り投げると、代わりにバスケットの中に入っていた、銀紙に包まれたバターを取り出した。ナイフで掬い取り、パンの上に載せる。バターはあっという間に溶け、パン一面に沁み渡った。そのバターは行きつけのパン屋がサービスで付けてくれるものなので、安心して口に運ぶことができる。
三切れほど食べ終えたところで、ドイツはバスケットの底に埋もれていたゼンメルに手を伸ばした。けしの実がまぶしてあるそれは、王冠をモチーフにした五つの切れ込みが入っている。それを手にとってまじまじと眺めていると、ドイツは幼い頃これを良く食べていたことを思い出した。
皇帝の名を持つそのパンを、その人とドイツは好んで食べていた。遠い思い出の懐かしさに目を閉じる。閉じた瞼の裏には、幼い自分とその人が映っている。その人がいる朝は賑やかだった。いつも笑いに溢れていて、静謐などというものとは無縁の食卓だった。
いつだったか、その人は幼い彼にこう言った。
――良いか、ルートヴィヒ。このパンのへんてこな模様はな、実はヒトデじゃなくて王冠なんだ。その証拠に、こいつには”カイザー”ゼンメルって名前がある。何だかわかるか?皇帝って意味だ。
ルートヴィヒがこくりと首を縦に振ると、その人は満足げな笑みを浮かべた。
――良いか、“ルートヴィヒ”。お前の名前は、王になるものにふさわしい名前だ。だから俺がその名を付けた。
そう言うと、その人はパンをルートヴィヒの前に差し出した。受け取れということなのだろう。おずおずと出した小さな手に、その人はパンをしっかり握らせると、このパンはお前にやる、と言って笑った。『未来の王の証だ』、と。
その人の言葉にルートヴィヒは素直に頷いたが、内心はあまり穏やかでなかった。その言葉を聞いた途端、胸の奥に、もやもやと黒い霧のようなものが立ち込め始めたのだ。黒い霧は一瞬でルートヴィヒの心を奪った。パンを貰った喜びも、触れた指先の温もりも、全ては遠い昔の出来事のように感じられた。
黙っているとその不安が大きくなる気がして、ルートヴィヒはしきりに口を開いた。
――兄さん。兄さんは、俺の兄さんだよね。俺より立場が上の兄さんなら、この先の未来でも、王であるはずじゃないの?
千切れそうなほど袖を引っ張って、ルートヴィヒはしきりにその人を見上げる。困惑したルートヴィヒの様子に、その人は曖昧な笑みを浮かべたまま、目線をあちこちに動かして、どうやら言葉を選んでいるようである。自分より随分背の高いその人をずっと見上げているのは辛く、ルートヴィヒは痛む首を落とし、彼から受け取ったパンに視線を向けた。理由はわからない、何故だか目の奥が痛かった。
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晴れた空に昇る太陽の光が、カーテンの隙間からシーツの上を照らしていた。窓の外から聞こえる、鳥のさえずりが心地良い。
まだまどろみを貪ろうとする意識を押し退け、重たい瞼をそっと開くと、ナイト・テーブルに置いたデジタル時計は、“05:27”を示していた。ドイツは横になったままテーブルへ腕を伸ばし、目覚ましのスイッチを切り、大きく息を吐いて、首を左右に傾けて骨を鳴らすと、ようやくむくりと起き上がった。日頃アラームの鳴る時刻は六時ちょうどである。いつもより少し早い朝だ。
窓を開けると、朝のさわやかな風が、ドイツの前髪を揺らした。外の空気を肺いっぱいに吸い込むと、若い芝生の匂いを感じ、白い鼻翼が微かに膨れた。刈られたばかりの草の匂いである。
良い風が吹いているな、と思い窓の外に目をやると、ドイツはまだ生え揃わぬ芝生の上にちょこんと腰を下ろす、愛らしい小鳥を見つけた。黄色い羽毛は、青々とした芝生に良く映えた。窓から小鳥までは数メートルほど隔たっていたのだが、その距離からでも、つぶらな黒い瞳が、何かもの言いたげにこちらをじっと見つめているのが、ドイツにははっきりとわかった。
先ほど聞こえてきたさえずりは、どうやらこの小鳥のものらしい。小鳥はドイツと目が合うと、己の歌声を自慢げに披露した。その姿に思わず笑みを一つ零すと、まだあどけないその歌声に、ドイツは目を瞑り、耳を傾ける。それはドイツの郷愁を煽るような、美しいさえずりだった。
小さなコンサートが終わりリビングへ向かうと、カーペットの上で尻尾をぱたぱたとゆらしていた三頭の犬が主人の姿に気付き、足元へと駆け寄ってきた。ドイツは一頭一頭にきちんと目を合わせて朝の挨拶を交わす。挨拶を終えると、そのうちの一頭に目で合図を送った。すると犬は凛々しい声で“Ja“と鳴き、ゆったりとした足取りで玄関へと向かった。ドイツはキッチンへ向かい、棚からドッグフード、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ぴかぴかに磨かれた銀の皿の上に注いだ。彼が戻ってくる前に、朝食を用意しておこうと思ったのだ。
ドイツが彼らの食卓を彩っているその間、二頭の賢い犬は大人しくお座りをして、主人の合図を待っている。
ちょうど三頭分の朝食を用意し終えた頃、爪がフローリングと擦れる音がして、ドイツは音の鳴る方へと顔を傾けた。その音は、口にビニール袋に包まれた新聞を咥えた彼が、早く褒めてほしいと、主人の元へ戻ってくる音である。
新聞を受け取ったドイツは、“Danke.”と頭を撫でたあと、彼らに目線で合図を送る。三頭ともにサインが行き渡ると、彼らは自分の食器に食らいついた。よほど腹が空いていたのだろう。ドイツは彼らの食事の風景をしばし見守っていたが、やがて自身も空腹を覚えると、キッチンへ向かった。
冷蔵庫の中身を確認しつつ、しばらく何を作ろうかと首を傾げていたが、ふと今日が火曜だったことを思い出すと、ミルクとコップを手に取って、リビングへと戻った。毎週火曜日は、近所のパン屋で買う、焼きたてのパンがあるはずだ。
テーブルの上には、想像していた通り、焼きたてのパンがバスケットに詰まっていた。ライ麦の発酵した香りと温かさが、この部屋一面を満たしている。
席に着いてミルクを注ぐと、ドイツはバスケットの中にあるプンパニッケルを取った。ナイフで食べやすい量に切り分ける。パンはまだ温かかった。チーズでも載せればさらにうまそうだと思っていると、何故かちょうど目の前に、まだ未開封のチーズがあった。カマンベールの写真がプリントされているその丸い箱は、彼が好んで食べているチーズそのものである。訝しげな目付きで注視するも、箱の隅に印字されている賞味期限の日付は、まだしばらく先であった。
――一体いつから置いてあったのだろう。いつもならすぐ冷蔵庫にしまうはずなのだが…。
チーズを手に取ると、想像していた以上にひんやりとしていて、ドイツは驚いた。それは今さっきまで冷蔵庫に入っていたかのような冷たさを持っていた。蓋を開け銀紙を開くと、箱を鼻の辺りまで持ち上げた。匂いは至って普通のチーズである。
味も確かめようかと思ったが、それは流石にあやしいので止めておいた。これは処分しておこう。ドイツはチーズの蓋を閉じ、テーブルの下にあるごみ箱の中に放り投げると、代わりにバスケットの中に入っていた、銀紙に包まれたバターを取り出した。ナイフで掬い取り、パンの上に載せる。バターはあっという間に溶け、パン一面に沁み渡った。そのバターは行きつけのパン屋がサービスで付けてくれるものなので、安心して口に運ぶことができる。
三切れほど食べ終えたところで、ドイツはバスケットの底に埋もれていたゼンメルに手を伸ばした。けしの実がまぶしてあるそれは、王冠をモチーフにした五つの切れ込みが入っている。それを手にとってまじまじと眺めていると、ドイツは幼い頃これを良く食べていたことを思い出した。
皇帝の名を持つそのパンを、その人とドイツは好んで食べていた。遠い思い出の懐かしさに目を閉じる。閉じた瞼の裏には、幼い自分とその人が映っている。その人がいる朝は賑やかだった。いつも笑いに溢れていて、静謐などというものとは無縁の食卓だった。
いつだったか、その人は幼い彼にこう言った。
――良いか、ルートヴィヒ。このパンのへんてこな模様はな、実はヒトデじゃなくて王冠なんだ。その証拠に、こいつには”カイザー”ゼンメルって名前がある。何だかわかるか?皇帝って意味だ。
ルートヴィヒがこくりと首を縦に振ると、その人は満足げな笑みを浮かべた。
――良いか、“ルートヴィヒ”。お前の名前は、王になるものにふさわしい名前だ。だから俺がその名を付けた。
そう言うと、その人はパンをルートヴィヒの前に差し出した。受け取れということなのだろう。おずおずと出した小さな手に、その人はパンをしっかり握らせると、このパンはお前にやる、と言って笑った。『未来の王の証だ』、と。
その人の言葉にルートヴィヒは素直に頷いたが、内心はあまり穏やかでなかった。その言葉を聞いた途端、胸の奥に、もやもやと黒い霧のようなものが立ち込め始めたのだ。黒い霧は一瞬でルートヴィヒの心を奪った。パンを貰った喜びも、触れた指先の温もりも、全ては遠い昔の出来事のように感じられた。
黙っているとその不安が大きくなる気がして、ルートヴィヒはしきりに口を開いた。
――兄さん。兄さんは、俺の兄さんだよね。俺より立場が上の兄さんなら、この先の未来でも、王であるはずじゃないの?
千切れそうなほど袖を引っ張って、ルートヴィヒはしきりにその人を見上げる。困惑したルートヴィヒの様子に、その人は曖昧な笑みを浮かべたまま、目線をあちこちに動かして、どうやら言葉を選んでいるようである。自分より随分背の高いその人をずっと見上げているのは辛く、ルートヴィヒは痛む首を落とし、彼から受け取ったパンに視線を向けた。理由はわからない、何故だか目の奥が痛かった。