夜になると、彼は
6.
カーテンの隙間から差し込む太陽が、ドイツの足元を暖かく照らした。窓の外から聞こえる、鳥のさえずりが耳に心地よく響く。まどろんだ瞳を無理やりにこじ開け、ナイト・テーブルに置かれた時計に目をやる。デジタル時計は“05:52”を示していた。目覚ましが鳴る六時より少し早く起きてしまう癖は、彼の体に馴染んでしまっている。
換気のために窓を開ける。さわやかな風が、ドイツの部屋をさっと過ぎていく。何気なく視線を下に落とすと、窓枠に腰掛けた黄色い小鳥と目が合った。小鳥は小さくぴいぴいと鳴く。愛らしい鳥だ。一体どこに巣があるのだろう。ドイツはじっと目を凝らし庭の木々を見つめたが、さらさらと揺れる葉群れの奥の様子を探ることは出来なかった。
「お前の親はどこにいる?」
その問いに答えるかのように、小鳥は先ほどより大きな声で鳴いたかと思うと、窓からドイツの部屋へ侵入し、そのまま僅かに開いていた廊下へと続くドアの隙間をすり抜け、どこかへ飛んでいってしまった。
「おい、待て!」
ドイツは追いかけるようにして廊下を駆ける。小鳥は小さい羽を上下に動かし、どうやらリビングへ向かっていくようだった。ぱたぱたと音を立てて走っていると、それに釣られたのか、リビングへ繋がるドアから勢いよく三頭の犬が飛び出してきた。
「アスター、ブラッキー、ベルリッツ!」
珍しく屋内で走り回るドイツを見て、犬は遊んでもらえると思ったのか、ぐるぐるとドイツの周りを回っては行く手を阻んでいる。ああ、鳥を見失ってしまう。
「あー、お前たち、“Guten Morgen!”」
朝の挨拶を交わし、三頭の犬の頭を優しく撫ぜてやると、彼らは自然に道を開けてくれた。三頭はそのままリビングへと向かうドイツについて歩く。黄色い小鳥は、ダイニングテーブルの上にちょこんと腰を下ろしていた。足元には大きめのパン屑がいくつか散らばっていて、ドイツはこれが原因だったのか、とため息をついた。大方、匂いにつられてやってきたというところだろう。
「なぜパン屑がこんなところに…」
いつも机の上は綺麗に掃除しておくはずなのだが…とドイツは頭を抱えたが、小さな嘴でパンをつつくその愛らしい姿を見ていると、何だか全てがどうでもいいように思えた。朝からいらいらしていても仕方がない。怒っていては楽しい食事にならないことを、ドイツはずっと昔、幼いころから知っていた。
ドイツは食器を取りにキッチンへと向かった。今朝は昨日のパンの残りがあるはずだから、それにしよう。棚から皿とコップとナイフを、冷蔵庫からチーズと牛乳を、賞味期限を確認してから取り出す。冷蔵庫の扉がきちんと閉まるのを確認してからテーブルへ移動しようとして、ドイツは立ち止まった。冷蔵庫に見慣れないメモが貼ってあった。いびつな形の、赤く色づけされた絵が描いてある。
「何だ、これは」
赤い歪な物体の上には“Rubin”と書いてあったので、恐らくルビーだということがわかった。一体これは何のメモだろう。それに、その隣に書かれた文字がわからない。かろうじて頭文字が“P”だということはわかるのだが、その後に綴られた文字がまったく読めない。これといって字が汚いわけでも、使われたペンのインクが薄いわけでもない。それなのに、何故かその文字だけが、ドイツには認識することができなかった。
しばらくそのメモと見つめあっていたが、やがて頭が痛くなり、きっと酔った時に書いた落書きだろうと自分で納得し、ドイツはメモ帳をゴミ箱へと捨てた。たかだか落書きにメモを使うだなんて、紙の無駄遣い以外の何物でもない。
次からは気をつけようと思い、ドイツはテーブルに付く。コップにミルクを注ぎ、そのまま一杯飲み干す。バスケットからライ麦パンを取り出し、ナイフで薄く切りわけると、上にフルーツチーズを載せて口に運ぶ。
その間、何故だかわからないがあのメモが気になり、何度も何度も、ドイツは何かを惜しむように、しきりにキッチンを振り返っていた。その姿を向かいのテーブルに座る小鳥が、パンをつつく嘴を止め、不思議そうに見つめている。
――このもやもやした気持ちは何だ。
ドイツはパンを皿の上に置くと椅子から立ち上がり、急ぎ足でキッチンへと向かった。冷蔵庫の横にあるゴミ箱に手を突っ込み、先ほど捨てたメモ帳を拾う。くしゃくしゃに丸められたメモには先ほどと同じ、赤いルビーとよくわからない文字が書いてあるだけだ。何の意味も持たないものだと思う。こんなのはただの落書きだ。
――それでも、俺はこれを捨ててはいけないような気がする。
黙ってメモを見つめていると、なぜか目の奥が熱くなって、ドイツは慌てて顔を覆った。メモに涙が滲み、インクがぼやけて消えていく。
―――俺は大事なことを忘れている気がする。失くしてはいけない何か、とても大切な何かを…。
忘れてはいけないことが、たくさんあった気がする。
それが何だか思い出せないまま、ドイツはその場で、延々と立ち尽していた。
(夜になると、彼は/2010.09.07~11.21)