暦巡り
秋彼岸 9月20日
「半殺しにします」
耳から入ってきた日本の言葉は予想外の信じられないものだった。脳内でうまく処理できずに真っ白になる。
『半殺し』
なんとも物騒な言葉だ。キッチンに立つ日本は、俺に背を向けたまま淡々とそれを告げた。顔が見えないってすんごく怖い。日本は何かを潰しているらしく、ドスンドスンと胸をえぐり込むような音がキッチンに響いている。余計に怖い。
俺、何か日本を怒らせるようなことしたっけ? ただ、朝から忙しそうだった日本に「何してるんだい?」って聞いただけなのに。それとも何か別のこと?
ぐるぐると思考が回る。原因を突き止めようと記憶の引き出しを片っ端から開けまくった。日本は大抵のことなら「しかたないですね」とため息交じりに流してくれる。彼が本気で怒るのは食べ物のことと二次元――。
『二次元』
そのキーワードに気付いた俺は、すうっと顔から血の気が引いていく。
心当たりが、ある。
一月ほど前のことだ、俺は日本の留守中に彼のコレクションを勝手に触って壊してしまった。しかも、日本がとびきり気に入っている『嫁』のレア物のフィギュアを。
腕の根元からばっきりと折れたそれをあわてて瞬間接着剤で直して、素知らぬ顔で棚に戻したんだけど……。
きっとアレがバレたに違いない……!
ゴクリと生唾を飲み込む音がやたら大きく聞こえた。
本気で怒った日本は恐ろしい。怖いじゃなくて、恐ろしい。
すぐに謝るのが得策だ。
でも……と、俺はわずかに躊躇する。もしかしたら日本の怒りの原因は別のことかもしれないし、その場合「フィギュアを壊してごめんなさい」なんて言ったら、墓穴を掘ることになる。とんだやぶへびだ。
「アメリカさん」
「え、あ……! な、なんだい!?」
ぼそりと呟くような日本の呼び掛けに思わずビクッと肩が跳ねる。どうにか絞り出した返事はみっともないくらい上ずって声がひっくり返ってしまった。
俺が日本の一挙手一投足をじっと見つめるなか、彼はゆっくりと振り返り、
「それとも、アメリカさんは全殺しのほうが良いですか?」
それはそれは綺麗な笑顔を俺に向けた。手には警棒のようなものを握りしめて。
「……」
日本の笑顔には種類がある。ニコニコしているからといって楽しいとか嬉しいとかポジティブな感情だとは限らない。怒り狂って怒髪天をつく心境でも彼はいっそすがすがしいほどの笑顔を見せてくれる。
つまり、今、日本は非常に怒っていると考えて間違いない……!
蛇ににらまれた蛙みたいに、だらだらと流れるあぶら汗が止まらなかった。もう謝るしかない……!
「ご、ごめん、ごめんなさい、日本! 勝手に君の秘蔵フィギュアに触ったことは謝るよ! でも信じて欲しい、壊すつもりなんかこれっぽっちもなかったんだぞ! それなのに半殺しは嫌なんだぞ! 腕が動きそうだな……って、ちょっと、ホントにほんのちょっと力を入れただけなんだ。あ、あとちゃんと瞬間接着剤で直したから――」
必死で捲し立てる俺に、初め驚いたようにきょとんとしていた日本。でも、すぐに口元を緩めると、
「アハハハハッ……!」
「へ?」
声をたてていかにも可笑しそうに笑い出す。とうとう怒りのメーターがぶちぎれたのかと思ったけど、さっきまで日本が醸し出していた威圧感はもうない。俺にはさっぱり状況がつかめないまま、日本の笑いの発作はしばらく続いた。
「ふっ……アメリカさん」
ようやく落ち着いてきた日本が、笑いすぎて目じりに浮かんだ涙をぬぐいながら俺を見上げる。黙ってその黒い瞳を見返すと、彼はまたふふふと小さく笑って、
「半殺しは、おはぎのことですよ」
ふかしたもち米を半分だけ潰すので半殺しとも言うんですと、楽しそうに言う。
「……おはぎ?」
おはぎって、あのつぶつぶしたお餅とあんこの和菓子?
「え、じゃあ、君は怒ってたんじゃなくて……」
「ええ、おはぎを作っていたんですよ。秋彼岸ですからね。ちなみに全殺しはあんころ餅のことです」
「なんだ……」
ガチガチにこわばっていた肩から力が抜ける。
全部俺の勘違いだったんだ。日本は怒ってなんかいなかった。
ああ、良かったと俺は大きく安堵のため息をつきかけて、
「――ところでアメリカさん、あなたが壊したという私のコレクションについて詳しくお聞かせ願えませんか?」
日本の笑顔に凍りつく。彼のバックに、にっこりという文字が見えそうなほど完璧な笑顔だった。
ジーザス。なんてこったい……。
END