暦巡り
入梅 6月11日
ぼってりと重暗い雲が立ち込め今にも泣き出しそうだった空が、とうとう感極まったのか大粒の雫を降らせ始めてしまった。その雨足は思いの外強く、ポチくんの散歩途中だった私とアメリカさんは、雨を避ける為に近くにあったコンビニに軒下を借りることにしたのだ。
「止まないね」
「……そうですね」
しばらく肩を並べて空を見上げていたが、雨の勢いは弱まる気配を見せない。腕の中が窮屈なのか、もぞりとポチくんが身じろぎをした。
「入梅を過ぎたというのに、傘を持たずに出掛けてしまうとはさすがに迂濶でした」
そうもらしてため息をついた。代わりに吸い込んだ空気はしっとりとした水の匂いがする。散歩ぐらいならと高をくくったのがいけなかった。天気予報の降水確率だって、随分高かったのに。
「この時期の日本ちは雨ばかりなんだぞ」
そんな非難めいた言葉が耳に届く。空をみつめていた視線をアメリカさんに移した。連日の雨に辟易しているのかと思いきや、意外にも彼の顔はどこか楽しげな表情を浮かべている。
「必要な雨ですから」
目を細めてそう言うと、「そうだね」と、アメリカさんは短い返事を口の端にのせてから、
「君んちの雨はなんだか優しい気がするし」
ふっ……とまなじりを下げる。今は太陽が姿を見せぬ季節だけれども、彼の空色には一片の雲のかけらも陰りもない。雨の色を写し込んで透明度を増し、普段より凄艶な気さえした。
「優しいですか?」
「うん、日本がいるからかな?」
「あらあら、こんなじいさんを誉めても何も出ませんよ」
「風呂上がりのアイスを二個にしてくれたら、それでいいんだぞ」
まるで、いたずらっ子のようにアメリカさんはにやりと笑う。
私はしばし考えるふりをして、
「しかたないですね」
と苦笑を返した。答えなど初めから決まっている。私は、この人にはたいがい甘いのですから。それに、やはり彼の言葉が嬉しかったというのもあった。
「やった!」
「でも、小さいやつですよ」
「えぇー! 日本のけちんぼ!」
喜色満面のアメリカさんにさりげなく釘をさすと、彼はとたんに唇を尖らせた。
それがなんだか可笑しくて、私はくすくすと忍び笑いをもらす。その笑い声もすぐに穏やかな時間を包む雨の音にとけてしまった。
「止まないね……」
アメリカさんが二度目の台詞をぽつりと呟いたあと、なんとなく二人とも口数が少なくなる。落ちた静寂の中、ぱたぱたと落ちる雨垂れを眺めながら、これからどうしようか思考を巡らせた。
ずっと、ここにこうしているわけにもいかないでしょう。
「ビニール傘を買ってきましょうか?」
幸いここはコンビニですし、持ち合わせもいくらかはあります。
「いらないよ。透明な傘、君の家の傘立てにいっぱいささってたんだぞ。まだ増やすつもりなのかい?」
「う……」
出先で雨が降ると、お手軽な値段ですし、つい購入しちゃうんですよね……。
「じゃあ、どうするんです? 雨の中を走って帰りますか?」
きまりの悪さをごまかすように、口をついてでた言葉は少しだけ皮肉めいていた。
もちろん、そんなことは出来ないでしょう……と暗に含んだつもりだったのに、
「そうだね。そうしようか」
「え?」
まさかの肯定。そして、言うや否や、アメリカさんは私の手をつかんで避難していた軒下から雨の中へと走り出した。落ちそうになったポチくんをあわてて抱え直す。
「アメリカさん!? 濡れちゃいますよ!」
顔にあたる雨粒が冷たく、目を開けるのもままならない。ぐいぐいと私を引っ張りながら先を行くアメリカさんに抗議すると、
「ははは、こんだけ濡れると、逆に気持ち良くないかい?」
実に楽しそうに彼は声をたてて笑った。
気持ち良いか悪いかは別として、彼の言う通り、もうすでに私たちは、取り返しがつかないほどすっかり濡れ鼠になっていて。
こうなってしまえば、諦めるしかありません。
心中で、ため息をもらす。
ああ、もう。この人ときたら。
バシャバシャとアスファルトの水溜まりを蹴る二人分の足音。
手を繋いだまま、私たちは家路を急いだ。
……家に帰ったら、真っ先にお風呂場に直行ですね。
END