暦巡り
立春 2月4日
「君んちの春はまだ来ないのかい?」
身を縮込めるように背中を丸めてすっぽり炬燵に入っていたアメリカは、愚痴めいた呟きをぼそり、漏らした。ひとり言だ。まるで問いかけのようだが、とくに返事を期待している訳ではなかった。
しかし、それが差し向かいの当事者の耳に届いたらしい。
日本が口に運ぼうとしていた湯呑みをコトリと置く。
「暦の上では、もう春になってますよ」
「まだ全然寒いんだぞ!」
苦笑を浮かべる日本に、間髪入れずに不平をかえす。ぶう、と唇を尖らせた。
雪見障子から垣間見る外は、いまだに木枯らし吹きすさぶ冬。カチコチになるような寒さを思い出してアメリカは首を竦めた。
『暦の上では春』なんて言葉はなんの慰めにもならない。
だからどうしたという感想しか出てこない。
だって、寒い。
……炬燵は天国なのになあ。
「早く春になったら良いのに」
儚い願望を口の端にのせる。うららかで穏やかな日差しがふりそそぎ、花匂い立つ季節に思いを馳せて、嘆息をこぼした。
「春ですか……」
ぽつり零れた低い声。首をわずかに傾げ、困ったように眉根を寄せて日本はなにやら思案に耽っているようだ。
どうしたのだろう。
アメリカはさらに背中を丸め、炬燵に突っ伏して天板にぺたりと顎をのせた。
自分は今すぐ春にしろなんて無茶な要求をしたわけではない。そんなことはどう考えても不可能。だったら良いなという益体もない戯れ言だ。なのに、何を考え込んでいるのか。
ややして、何か良いことでも思い付いたのか、日本は顔を上げてにこりと笑った。
「アメリカさん、春を召し上がりませんか?」
「え?」 思わず聞き返す。「春だって?」
「ええ」
日本は微笑んだまま、首肯した。その声音は至極真面目なものだ。からかい半分の与太話ではないらしい。
「私、ちょっと買い物に出てきますね」
そう言って日本は立ち上がった。一瞬、わずかに空いた炬燵布団の隙間から暖気が逃げる。
「アメリカさんも一緒に行きますか?」
誘われてアメリカはちらりと硝子の外に視線を流し、
「やめておくよ」
と首を振った。
食べる春がいったいどんなものなのか気にはなるが、外は間違いなく寒そうだ。
今、炬燵の支配力から立ち上がるだけの意思の強さは、残念なことにいくらヒーローでも持ち合わせていない。
「では、お留守番をお願いします」
「うん、行ってらっしゃい」
アメリカは炬燵に埋もれたまま日本を見送った。
日本が出掛けたあとの家の中はとても静かだった。聞こえるのはカチコチと時を刻む柱時計の音だけ。
暇を潰そうとつけたテレビは、面白そうな番組がなかったのですぐに消してしまった。今はゲームをする気もおきない。
「日本、早く帰ってこないかなあ……」
自分の声がやけに部屋の中に響く。日本がいないことで、グッと寒さが増したような気さえした。
ぽちくんは炬燵のすみですやすやと気持ち良さそうに夢の中だ。起こしてしまっては可哀想。
アメリカはひとりだ。ひとりは退屈。ひとりは寂しい。ひとりは……やっぱり寒い。
炬燵の中に寝転んで、首まですっかり布団をかける。
一緒に買い物に行けば良かったかな。そう思って、アメリカは少しだけ後悔した。
「……カさん、アメリカさん起きてください。風邪を引いてしまいますよ」
「うにゅ……?」
肩を揺り動かされて目が覚めた。どうやら眠ってしまっていたらしい。目の前には日本の顔があった。寒い外から帰って来たばかりなのだろう。鼻頭が赤くなっている。
「おかえり、日本」
「はい、ただいま戻りました」
もぞもぞと炬燵から這い出して座り直した。かいた汗が冷やされて、これが風邪を引く原因だと分かっていても、火照った体に気持ち良い。
「喉が乾いたな」
「おやつを買って来ましたから、今お茶を淹れますよ」
おやつという言葉に寝ぼけていた頭がしゃっきりする。
そうだ。日本は春を食べさせてくれると言っていた。今日のおやつはきっとそれだ。
好奇心がうずく。
すぐにアメリカは、炬燵の上に、綺麗に包装された文庫本程の大きさの白い箱があることに気付いた。さっきまではなかったものだ。
「ねえ、これが春かい?」
「ええ、そうです」
こぽこぽと急須のお茶を二人分の湯呑みに注ぎながら、日本が頷く。
「開けてみていい?」
「構いませんよ」
了承を得て箱に手を伸ばす。細いリボンをほどこうとすると、
「あ!」
日本が声を上げた。
「え、何?」
思わず手を止める。何かまずいことをしてしまったのだろうか。
「……アメリカさん、春が逃げてしまわないように気をつけてくださいね」
「ええっ!? 春って生き物なのかい!?」
驚くアメリカに、日本は「ふふふ」と肯定も否定もせずにただ微笑むだけだ。
そうか、春は生き物なのか。そして、それを食べるのか。この中にはいったいどんなものが入れられているのだろう。
ごくりと喉を鳴らしてアメリカは慎重に箱を紐といた。
ゆっくりと蓋を持ち上げて、そうっと中をのぞきこむ。とたん、アメリカは拍子抜けしてしまった。非難めいた視線を日本に向けると、「ふふ、冗談ですよ、冗談」と言って日本は可笑しそうに笑った。箱の中身はなんの変てつもない和菓子だった。
桜の花を模した桃色の小さな菓子が綺麗に並んで四個。
「これって、おまんじゅう?」
「いいえ、練り切りというんですよ。……はい、どうぞ、召し上がれ」
今の時期にはまだ早い春の練り切りを、知り合いの和菓子屋さんにちょっと無理をお願いして作って貰ったんです。と、日本は箱から練り切りをひとつ取り出し、湯気立つ湯呑みと共にアメリカに差し出す。
勧められるまま、添えられていた竹の楊枝で練り切りを刺し、それを口に運んだ。
小さな春は、ぱくりと一口だった。
控え目な甘さが口の中に広がる。痺れるような甘さに慣れた舌には物足りないが、これが春の味なのだと言われれば、妙に納得出来る気がした。
「美味しい」
「それは良かった」
二つ目もすぐにアメリカの胃の中に消えていく。和菓子は全部で四つ、一人分はふたつ。残りは日本の分だったけれど、「私はひとつで十分ですから、どうぞ」そう言われて遠慮なくもうひとつ頂いた。
「もっといっぱい買ってくればいいのに」
それでも、小さな和菓子三個だけではやっぱり満足出来なくて、熱い煎茶を啜りながらアメリカが呟くと、
「あら、それはいけませんよアメリカさん。あんまり食べ過ぎると――」
日本は大仰な程真面目くさった顔で言った。
「春がなくなっちゃいますから」
END