暦巡り
節分 2月3日
日本家の真新しいこたつに寝転がり、ぬくぬくまったりとマンガを読んでいた俺は、日本の「今日のお昼は恵方巻です」という声に顔を上げた。
聞き慣れない単語に首をかしげる。えほーまきってなんだろう?
起き上がってこたつに座り直す。見ると、割烹着姿の日本が抱えた大きな四角い皿には黒くて太くて長い物体が何本ものっていた。それ自体は俺も良く知っている物だ。
「これが、えほーまき? スシロールじゃないのかい?」
「同じものですよ。ただ、一年に一度、節分の日に食べる太巻を恵方巻と呼ぶんです」
そう、にこにこと笑顔で説明し、日本が大皿をこたつの天板に置く。ごとりと結構な重量感のある音がした。総重量はどのくらいだろうなんて、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
「その年の恵方、歳神様がいらっしゃる方角です。今年は丙……おおよそ南南東ですね。そちらを向いて丸かぶりしながら願い事をすると叶うと言われていますよ」
「本当かい!?」
なんだい、それ、すっごくスペシャルじゃないか!
「今、お茶を淹れますね」という日本の声を聞きながら、それじゃあさっそくと、えほーまきの皿に手を伸ばす。一本持ち上げると、ずしっときた。一本だけなのに予想にたがわずやっぱり重い。
「ええと、南南東は――」
「あちらですよ」
寿司屋にあるような大きな湯飲み二つにお茶を注ぎ終わった日本が、そう言って指差す。
彼の手には小さな方位磁石があった。準備がいいね。
こたつから出なくても良いように、体を捻ってそちらを向く。
えほーまきの太さに負けないくらい大きく口を開けて、パクリとそれを咥え込んだ。すっごい大きい。口の幅ぎりぎりだ。しかも一気に深く咥え過ぎて苦しい。軽くえずいて涙目になった。相手は意外に手ごわいな。うう、負けないんだぞ!
あとは……願い事をするんだよね。
「もっ! もごもごっ! ももも! もっもっ、もごごっ……!」
「あ、アメリカさん」
「もごっ?」
「すみません、私言いそびれておりました。恵方巻を食べる時は喋ってはいけないのです。お願い事は心の中でそっと仰ってください」
「なんだい、それ早く言ってくれよ」
一本食べ終わっちゃったじゃないか。美味しかった。中身は玉子焼きにきゅうり、甘いピンクの、あとはなんかいろいろ。
「……実にすみません。ああ、それから、恵方巻は目を閉じて、口から離さず一気にお召し上がりください」
作法が多いんだな。
「わかったぞ」と日本に頷き返して、仕切り直しだ。
もう一本えほーまきをつかみ上げる。言われた通り、目を閉じてかぶりついた。
もぐもぐと咀嚼しながら、願い事を考える。
ヒーローになりたい。でも、俺はもとからヒーローだしな。
今さらお願いすることでもない気がする。
あ、このえほーまき、中身が肉だ。たぶん、細く切って揚げたトンカツ。それとレタスかな、しゃきしゃきしてて美味しい。
……じゃなくて、願い事、願い事。欲しいものはいっぱいあるけれど、それをお願いするのはなんか違う気がする。
考えがまとまらないうちに、またえほーまきを食べ切ってしまった。なんてこった。
目を開けると、日本と視線が合う。……えほーは南南東だ。逆じゃないか?
「君はえほーまき食べないのかい?」
「あとで頂きます」
むしろ、今は眼福で大変ご馳走様です。と、日本は上機嫌そうに白い歯を零す。
言ってる意味は良くわからなかったが、深く突っ込んで聞いてはいけない気がした。
「私は一本あれば十分ですから、たくさん召し上がってくださいな」
「相変わらず君は少食だな」
「……一本でもお腹いっぱいになりますよ」
苦笑いを浮かべる日本。ふと、好奇心にかられて、俺は彼に質問をしてみた。
「日本は何をお願いするんだい?」
「ありきたりですが、無病息災です。今年も一年健やかに過ごせますように、と」
日本は穏やかな口調で目を細めた。きっと毎年同じことを願っているのだろう。
「実に君らしいな」
感嘆のため息と共にぽつりと呟いた。「それが第一ですから」と日本が真面目腐った顔で言う。爺臭いんだぞ。
さて、じゃあ、肝心の自分のお願い事は何にしようか……と、口にした三本目はツナが入っていた。辛しマヨネーズ味。
やっぱり日本の料理は美味しいな。
こたつが温かくて、ご飯が美味しくて、優しい恋人の日本がいる。なんだ、俺は幸せじゃないか。なかなか願い事が決まらなかったのは、今に満足しているからなんだな。
「……」
そういうことなら――
三本目を食べ終えて、「願い事、したよ」と日本に言うと、「叶うと良いですね」と彼は微笑む。
「ああ、そうだね」
すっとした充足感に包まれて、俺もとびっきりの笑顔を返した。
――願わくば、この穏やかで静かな愛しい時間が、少しでも長く続きますように。
END