たすけるを言わせて
全身が冷たい膜に包まれていた。
真夏のコンビニの中みたいに、大晦日の神社の中みたいに。
肌は、刺されるような冷たさに包まれている。
そんな自分の所在と、至る過程がわかんなくて、綱吉は瞼を上げるのが怖かった。大きく息を吐いてみると、腕に泡みたいなもんが当たった。泡。
泡?
此処はどこ。
いよいよ目を閉じてんのが怖くてたまんなくて、綱吉は瞼を上げた。
視界は酷くぼやけてて、少し時間がたってから目に入ったのは、両手をがっちり拘束している手錠だった。
そんで綱吉の周囲は冷たい水に満ちていた。
ほの暗くて、冷たい場所。物々しい配管。試験管みたいな水槽。プールの塩素みたいな薬品くさい匂い。綱吉は、この場所を知っていた。
とてもぼんやりした既視感だった。
そうだ、ここは彼の寝床だった。
裏世界の監獄の、最果て。
夢を見ているのかと思いたかったけど、綱吉の頭はだんだんクリアになってきて、目が覚める前の出来ごとを再生してくれた。
『だって、君はたすけにきてくれなかったじゃないか』
絞り出すような声で、あの子がこぼした言葉も耳に蘇った。
それは、綱吉には何の事か分からなかったのに、えらく心に響いた。
そんくらい、切実な声だったのだ。ついでに内容も聞き捨てならない。
俺がいつ君を見捨てたって言うんだ、それは君らじゃないのかって。
抗議までは口にできなかったものの、一体それは何の事なのかと聞けば、あの子はいっそう怖い顔をした。
いつだって控えめに落とされていた声を張り上げて、たすけにきてって言ったのにって俯いた。
たすけにきてくれと手紙を書いたのに君は無視した、来てくれなかったって叫んだ。
もちろん綱吉には寝耳に水の話だ。何か伝達の不備があった事と、あの子がそれでとてもとても苦しんだ事だけが伝わった。
いや、あの時も、きっと今だってあの子は、炎真は苦しんでた。
小さな子が癇癪を起すみたいに容赦なく、炎真は綱吉に拳を振りおろした。笑ってしまうくらいの痛みが右頬を襲って、綱吉の軽い身体は吹っ飛んだ。仲間が自分を案じる叫び声が耳に届いた。
意識を何とか手放さずにすんだ綱吉は拳を握った、のだけど、炎は出なかった。
銀細工に形を変えてる小さな相棒と、綱吉は目があった。
泣きそうな目だった。その目は『なんで諍わなきゃならないの』と訴えてた。
そんでまた激痛、轟音。綱吉の意識は冒頭に至る。
シモンとボンゴレ。
なにかとんでもない行き違いが生じてるに違いないが、それを証明する手段が見つからなかった。
綱吉たちが『そんなわけあるかい』って断言するのと同じくらい、シモンの主張する『先祖の仇』は確固たる事実なのだ。
彼らにとっては。
お互いにさまだ。誰だって身内が正しいと思いたいもの。
本当にボンゴレのせいなのだとか、そのあたりの証拠はシモン側だって持ってない。
ほら、なのに一方的じゃないかって言うのは簡単だけど、彼らもいい加減限界だったのだ。
だって彼らが受けてきた理不尽な差別は確かな事だ。先祖云々が誤解だとしても、彼らの鬱憤はおさまりゃしないだろう。誰だっていいから、理不尽な待遇で溜まった不満をぶちまけたかっただろう。
だから綱吉は、山本やクロームのことがなくてもシモンと闘う道を選んだかもしれない、と思う。ちょっと前ならいやだいやだ、俺は関係ねぇ戦いたくねぇって首を横にぶんぶん振っただろうけど。
だって、理不尽な目にあって、いつか報復することだけを道しるべにして歩いてきた人間を、綱吉は知ってる。
(骸、むくろ)
名前を呼んでみる。返事は返ってこない。
配管の中から不気味な、電化製品特有の音。こ、ぽって自分の息の音。
そんだけしかここには聞こえない。
綱吉の声だってそうだ。四肢だけじゃなく口だって塞がれちまってるもんだから、呻き声だって出せない。名前すら声に出来ない。
(もっと傍にいてあげればよかった。気付いてあげればよかった。あの子は、いつだって困った顔で笑っていたのに。)
記憶の中の炎真の顔を思い出す。
結局、彼が心底おかしそうに笑ったのを見れたのは一度だけだった。いつも思いつめた顔をしていたけど、気付けなかった。
自分の事でいっぱいいっぱいになってた。訊いてあげればよかったのに。あの子は誰よりたすけを求めてたんだろうに。
だから、炎真への罪悪感なんてもんが生まれちまったのだ。
あの子を、こんなほの暗い場所にぶち込むことへの躊躇いがよぎっちまった。
だって、この場所の悲しさってもんは随分前から熟知してる。
彼がここに居る事が耐えらんなくて、綱吉の気がどうにかなっちまいそうだったくらいの場所だったのだ。
そんなところへやれないよ。
(ナッツは俺の写し鏡だ。きっと俺も、あんな顔をしていたんだろうな。だってほら、ここは冷めてぇよ。冷たい冷たい、こんなところに居ちゃあ駄目だ。駄目なんだよ、
骸)
『また甘っちょろい事言って。ついにこんなところにぶち込まれて満足ですか』
水槽の向こうに人影が見えた。
綱吉は自分がどんなに浮かれた表情をしたのか、自分でもわかっちまった。
(骸)
『不憫な出で立ちですね。
ね、こんな最果てに投獄されて腹が立たないんですか?憎らしくないんですか。君はなにもしていないのに、“友だち”に裏切られたあげく一生ここから出られないんですよ』
憎い?
綱吉は首を傾げかけた。確かに、綱吉はもっと、自分の不遇さに嘆いてよかったはずだ。骸の言葉に納得しながら、でも、首は横に振った。
『どこまで人間大好きだって言うんです、君』
(まさか、そんな高尚な話じゃないよ。怒るよりも自分が恥ずかしいんだ。あの子に何もしてやらなかったくせに何が「友達だと思ってるよ」、なんだって。何が。)
『彼だって君に何もしてくれなかったじゃないですか』
(…骸?)
綱吉は思わずくり返しちまった。それは、骸にしては珍しくて仕方ないくらい、とても優しい声だったから。
骸が馬鹿ですね、と続けて、ガラスの壁に手をのせた。鎖なんかなきゃあ、ガラスごしでもせめて手くらい合わせられんのにって思う自分は浮かれてんだろう。
『まだ彼を助けたいんですか』
(助けたい。絶対助けるよ。まだ諦めてない。俺はここから出るよ、そんで、)
そんで、の続きを思う前に骸は人差し指を口に当ててた。
『なら、いってらっしゃい。』
――そんで、お前も助けるんだって、綱吉は伝えたかったのだけど。
目を開けたらもう骸の気配はどこにもなかった。
綱吉の周囲に満ちていたはずの無重力感は消えてた。
身体が重い。もう、冷たい水はなかった。
綱吉は、水槽の前に寝そべってた。手錠は全部壊れてた。
「骸!」
返事は返ってこなかった。
ふざけんな。
――こんなこと出来るんなら、お前、自分の拘束解くだろ。出来なかったんじゃないのか。やりたくても、よっぽどリスクがあったんじゃないのか。なんで、なんで!