夜、君に触れる
夜の映画館、古びたスクリーンに映し出されるのは、往年の名作といわれるのがふさわしいモノクロの洋画だ。
もともとそう人気のあるタイトルでもなかったのだろう、スクリーンのまん前、一番良い席を陣取った僕たちのほかに、客は数えるほどしかいない。
「いい映画館でしょ」
僕をこんなところに引っ張ってきた情報屋を名乗る男が、目を細めて楽しそうに笑ったのが、約一時間前のことだ。
「スクリーン独り占めって感じで」
単に、人気がないから席を取るのが楽なだけだろうに、ものは言いようだ。そうは思っても、そんな嫌味を口にできるはずもなく、結局は、はあ、と適当な相槌を打ってしまった。
そもそも、今日はモヤシたっぷりのインスタントラーメンと言うご馳走を作る為に買い物をして帰宅したときまでは、こんなところに映画を見る予定は全く無かったのだ。皆無だ。
ところが、家のドアをあければそこに臨也さんが居て、やあお邪魔してるよ、なんて軽く言うものだから、僕は面食らった。今日何か約束があっただろうかと考えたけれど、そんなものは記憶にない。なんと言えばいいのかと悩んだ末に、たっぷり十秒は沈黙を保ち、結局、「いらっしゃい」と答えてしまった時手で僕の負けだ。
「一応聞くけど、今夜の夕食は何?」
「モヤシたっぷりラーメンです」
正直に答えるんじゃなかった。臨也さんは僕の夕食を聞いた途端に爆笑し、「モヤシたっぷりだろうがネギたっぷりだろうが胡椒たっぷりだろうがラーメンはただのインスタントラーメンでしょ」と痛いところをぐさぐさついた挙句、「そんなのばっかり食べてるから君は貧弱なんだよ」とさらに痛いところをついた。どうせ貧弱ですよ!と怒ればよかった。今更後悔する。
臨也さんは僕の手から買い物袋を奪い、早く着替えて、と突然僕を急かした。言われるまま私服に着替えたころには、僕のモヤシは冷蔵庫の中で、そして僕はなぜか上機嫌な臨也さんに手を引かれて家を後にしなくてはななかった。とりあえず鍋とかでいいかな、とかなんとか言われて、店に引っ張られて、その辺りでようやく我に返った。
「え、あの、僕お金ないですけど」
「大丈夫期待してないから。その代わり鍋奉行よろしくね、任せるから」
「は!?」
不条理だ、なんかよくわかんないけどとにかく不条理だ。結局僕は奢ってもらう羽目になり、キムチ鍋とミソ鍋どっちがいいと問われ、ミソと答えたのにキムチ鍋を食べる羽目になった。いや、キムチ鍋も美味いけど。もっとバランスよく具を入れないと、とか嫌味まで言われたけど不器用なんで!と適当に返事しておいた。結局食べ終わってからコチュジャンの入れ忘れに気づいたりして散々だった、臨也さん大爆笑するし。他の席のお客さんに丸聞こえな声で「キムチ鍋にコチュジャン忘れるとか!さすが帝人君想像以上だよ!」とか言うし。自分だって気づかないで食ってたくせに。
まあでも、僕も奢ってもらって食費は浮いたし、辛くなくても久しぶりのキムチ鍋は美味しかったから、そこまではまあいいとして。
腹ごしらえを終えた後、時間あるでしょ、とやっぱり手を引かれてやってきたのがこの映画館だ。
正直に言うならチャットにも顔を出したかったし明日は学校だし宿題もある。時間はない、とつっぱねてもよかった。というかそうするべきだった。
ただその、緩く僕の手を握る臨也さんの手が、本当にいつでも振り払えそうだったから、僕はついそのままついてきてしまったのだ。もっと強く握られたら払いのけたかもしれないし、そもそも手を握られなかったら逃げられたと思う。とても矛盾しているような気がするが事実だから仕方がない。
いつでも手を振り払って帰る事ができる、と思ったからこそ、ついてきてしまった。
そこは、新宿の駅から少し歩いたところにあり、奥まった路地裏の一角にひっそりと小さな看板が出ているだけの、一人だったら絶対に足を踏み入れないくらい怪しい雰囲気の映画館だった。躊躇い無く僕を引っ張って、臨也さんはそのドアを開けた。カラン、と喫茶店のようなベルの音が響き、薄暗くて狭いロビーには二・三人のサラリーマンがいるくらいで、とても静かだ。そこに、臨也さんの声が朗々と響き渡る。
「やあこんばんは!今日の映画何?」
あまりになれなれしいその口調から、臨也さんがここの常連なことを悟った。受付から顔をだした老人が、無造作に「ああ、あんたか」と臨也さんを認め、それから手元のノートをぱらぱらとめくって、聞いたこともないような映画のタイトルを告げる。
臨也さんはそのタイトルを聞くと、ひゅうと口笛を吹いて運命的だ!と小さく呟いた。よくわかんないけど運命的な映画らしい。あっけに取られる僕の目の前で、チケットを買おうと財布を取り出し、おもむろに、
「大人一枚と子供一枚」
なんて告げたものだから、僕はここだけは流せなかった。
「大人二枚です!」
訂正した僕の声は予想外に大きく響き渡り、ロビーにたむろしていたサラリーマンたちの視線をも集めてしまった。しまった恥ずかしい。いたたまれない気持のまま、しかし子供料金というのは非常に不本意なので、強固に主張する。
「高校生は学生証がないときは大人料金ですよね!」
「君は見るからに学生だから子供料金で十分でしょ」
「見た目で差別しないでください」
「だって、ねえ?」
ちらり、と臨也さんは受付の老人に視線を移した。僕もつられてそちらに目をむければ、一回、二回と瞬きをした老人は無造作に告げる。
「子供だな」
「なんで!?」
「そういう言い訳をするのが子供なんだよ。っていうか俺が奢るんだからいいでしょどっちでも」
「あなたに奢られるから高いほうがいいです」
「わお、素敵な愛の言葉を有難う。爺さん料金これで」
僕の言葉をひらりと交わして、臨也さんは万札を一枚、受付に放った。じーっと見詰めて視線で訴えた僕にため息を吐き出し、受付の老人は無造作にチケットとお釣を臨也さんに突き出す。その額を確認して、無事に大人料金を引かれていることに安堵した。
「あーもうこれだから一人っ子は。甘え上手だよねえほんとに」
苦々しく、けれども楽しそうにそんなことを呟き、臨也さんがチケットを片方僕に投げてよこしたけれど、やっぱり聞いたことのないタイトルだった。
「古い映画なんですか?」
尋ねた僕に、モノクロだよ、と無造作に答えた臨也さんが再び僕の手を引く。人目があるので振り払おうと思ったのだが、今度は強く握られていたので出来なかった。
古びた重々しい扉をくぐり、50人も人が入ったら一杯だろうな、と思われる客席のなかでも、ここがジャストど真ん中、という席に陣取る。既に客席に数人は座っていたけれど、みんな端のほうを選んでいるようで、ど真ん中に座るのが恥ずかしいくらいだ。
「・・・臨也さん、ここって」
「いい映画館でしょ」
臨也さんは深々とシートに体を沈めて、目を細めて楽しそうに笑った。
「スクリーン独り占めって感じで」
「・・・はあ」
それは単に、マイナー作品ばかりなので人入りが悪いからではないのだろうか?とは思うものの、流石にそれを口にするのはためらわれる。なんと言うべきか考えている僕に向かって、臨也さんは声を立てて笑って、その鬱陶しい笑い声を会場に響かせた。