いやし手
緑色の炭酸水に浮かぶアイスクリームをスプーンで沈めながら、僕は彼の白い指がコーヒーカップの柄に絡むのを見た。
麗らかな午後の日差しがファミリーレストランのガラスを通って、百合の花のような線で出来た彼の手を演出している。滑らかな花弁と固い筋の陰影。
その流線が少しだけ歪む箇所を僕は知っていた。
彼が決まり事のような流れでこの手を取る時、指の間や掌に違和感を覚える箇所があった。奇妙な硬さや膨らみ、凹み。
最初は何かのスポーツでもやっているのかと思っていたが、つい先日初対面時のリプレイよろしく間近で平和島静雄と喧嘩を繰り広げているのを見た際、彼の手の違和感はナイフの柄の当たっている処だと合点がいった。
見ている分にはわからない、それはわずかな歪みだった。
なんとなく、僕にはそれが彼自身に近い感じがした。
越えてはいけない一線を歪ませている。
そんな気がして、危ないなと思う。
フェンスのない屋上とか手すりのない螺旋階段とか、そんな感じに無害で、でも危ない。
しかし外面が大変綺麗なものだから、どうにも嫌悪する事が難しくて、この街で気安くかまってくれるものだから嬉しくて、純粋に付き合いの浅い人への緊張が入り混じって、上手く対応できないのだった。
全くと言ってよいほどに、彼の気を引くような要素を自分は持ち合わせていないと言うのに、何かにつけて目の前に現れる。
初めはダラーズの事で何かあるのかと思ったが、彼の口から出るのは一般的な話題の域を出ない。質問責めにされる事が多いのが多少気にかかってはいた。
自分からも幾つか話題を投げてみるものの、大抵は人を食ったような笑みで返されるのがストレスだった。年上の男性と、何を話せと言うのだと最近はそればかりに頭を悩ませている。
今日、オーダーの際なんとなく懐かしくなってクリームソーダを頼んでしまったが、その時の彼の反応といったらなかった。
目を細めて鼻で笑った後、にやにやしながら僕の事をコーヒーが来るまでずっと眺めていた。
僕にとって彼は悪い人ではないが得体の知れない分、苦手な人になりつつあった。
急速に縮められていくパーソナルスペースは確実に悲鳴をあげている。
それとも都会に置けるコミュニケーションの取り方とはこうなのだろうかと思考を巡らせ、日々ナンパに勤しむ親友の事を思い出した。
僕がありえないと思っている彼の日課は、もしや都会ではスタンダードなものだったのか。そこまで考えてそれはないだろうと思い直す。池袋を歩いていて人を強引にお茶に誘ってくる面識ある人物なんて、親友とその知人しか見たことがない。もしかして二人は類友なのだろうか。
そこで僕は首をかしげる。親友がナンパの先に見るのは一夏のアバンチュールのような不純なものであるが、そうすると、彼は一体何を求めて自分と向かい合っているのだろうかと。
人差し指に嵌めた銀の指輪が視線誘導の役割を果たしていることに満足しながら、俺は彼の無防備な顔を眺めた。
幼い顔の前に置かれたクリームソーダが、そのあどけなさに拍車をかけている。薄い体に、数か月前まで中等学校で学ランを着ていたのだなと思うと、背徳的な気分になった。彼よりも若い子供を相手に、色々とちょっかいを出しているのにも関わらず。
こうして彼と向かい合うのは一度や二度のことではなかったが、最初に比べれば随分警戒を解いてくれたきがする。初めは奢ると言うと遠慮して逃げてしまった。なんとか店へ引きずりこんで注文を聞いても「同じものを」と言うばかりで、自分に合わせてブラックでコーヒーを飲む姿には健気さまで感じたものだ。
それが今ではメニューをめくって、クリームソーダなんて頼んでしまうのだから、俺は頬が緩むのを抑えることができなかった。
そもそもクリームソーダを同席者に頼まれることなど久しくなかった。あれは一定の期間を過ぎると途端に圏外に移動する限定メニューみたいなものだ。流石に子供っぽいと思ったのか、オーダーを終えた彼が居心地悪そうにしながら恥ずかしげに俯くものだから有りもしない庇護欲が疼いてしまった。
いつも変わり映えしない白と黒の卓上に、今日は緑の海があるのを見て嗤う。それは、まるで全く興味のない映画を観終わったときのような達成感と倦怠感に近しい。燃えやすくなるように新聞紙を捻ったり、油をまいたりする作業と似ているなと考えて、俺はついそれのことを忘れコーヒーカップに口付けた。
「…っ」
「折原さん?」
予期しない痛みに肩を揺らすと、彼はアイスクリームを弄る手を止めた。
「どうかしましたか?」
口元を押さえて顔をそむける俺を彼は覗き込むように見る。
「大丈夫ですか?」
「いや……、大丈夫」
恐る恐ると言った風にコーヒーカップを見ながら尋ねてくる彼に向けて微笑んで、再びカップを持ち上げそっとコーヒーを口に含む。
口腔内を熱く焼いて、熱だけが喉を滑って落ちていく。瞬間的な鋭い痛みからの鈍痛に苛立ちすら覚えた。痛みと同時に傷を受けた時のことを思い出して、悪態が口をついて出そうになる。
テーブルを挟んだ向こうで、スプーンを置いた小さな手が気遣うように中空を漂っている。
淡い色の瞳が不安気に揺れるのが心地よくて、俺はわざと表情のデフォルトを崩した。
「…この間シズちゃんと追いかけっこした時に口の中切っちゃってさあ。口内炎になってるんだよね。忘れてた」
「大丈夫なんですか?体とか、他に怪我をしたり…」
目に見えてうろたえる彼に、暴力にとても遠い場所にいるのだなと俺は思う。
顔をしかめて唇の端を指で撫でると、彼は引かれるように手を伸ばした。
爪の丸い、たやすく折れそうな手首の先が自分に向けられるのを望んではいたが、内心どこか冷めた目でそれを見つめる。
全てが自分の思いのままだ。
彼もまた内包された個でしかない。
俺はそっと目を伏せて彼の指先が自分の口許に触れるのを待った。
ゆっくりと近づいてくる自分以外の熱に、彼の細い吐息が頬にかかるほど近くにいるような錯覚がする。
「あの、折原さん…」
「…ん?」
その熱が遠ざかったのをいぶかしんで俺は顔をあげた。
「これ入れてみますか?温くなって飲みやすくなるかも知れません」
彼の指は冷たいスプーンを持って、解け残ったアイスクリームをすくっていた。
「ごちそうさまでした」
店の外でかばんのひもを握りしめる少年は、いつも深々と頭を下げる。
出会った時から変わることのない呼び名や態度が、今日に限って嫌に俺を焦燥させた。
「俺から誘ったんだから、良いんだって」
笑顔を浮かべながら彼の肩を抱こうと距離を詰める。見計らったかのようなタイミングでポケットの携帯電話が着信を告げた。
「ごめん」
彼に断りを入れて背を向けると、俺はコートから携帯を取り出し耳に当てる。要件を端的に告げる女の声に、「わかった」と言って通話を終えた。
ついてないな、と思う。
「ごめんね帝人君。ちょっと用ができたから、俺はこれで失礼させてもらうよ」
「あ、はい」
「うん。じゃあね」
俺は携帯を閉じて踵を返した。
次はいつ会いに来ようか。
「臨也さんっ」
麗らかな午後の日差しがファミリーレストランのガラスを通って、百合の花のような線で出来た彼の手を演出している。滑らかな花弁と固い筋の陰影。
その流線が少しだけ歪む箇所を僕は知っていた。
彼が決まり事のような流れでこの手を取る時、指の間や掌に違和感を覚える箇所があった。奇妙な硬さや膨らみ、凹み。
最初は何かのスポーツでもやっているのかと思っていたが、つい先日初対面時のリプレイよろしく間近で平和島静雄と喧嘩を繰り広げているのを見た際、彼の手の違和感はナイフの柄の当たっている処だと合点がいった。
見ている分にはわからない、それはわずかな歪みだった。
なんとなく、僕にはそれが彼自身に近い感じがした。
越えてはいけない一線を歪ませている。
そんな気がして、危ないなと思う。
フェンスのない屋上とか手すりのない螺旋階段とか、そんな感じに無害で、でも危ない。
しかし外面が大変綺麗なものだから、どうにも嫌悪する事が難しくて、この街で気安くかまってくれるものだから嬉しくて、純粋に付き合いの浅い人への緊張が入り混じって、上手く対応できないのだった。
全くと言ってよいほどに、彼の気を引くような要素を自分は持ち合わせていないと言うのに、何かにつけて目の前に現れる。
初めはダラーズの事で何かあるのかと思ったが、彼の口から出るのは一般的な話題の域を出ない。質問責めにされる事が多いのが多少気にかかってはいた。
自分からも幾つか話題を投げてみるものの、大抵は人を食ったような笑みで返されるのがストレスだった。年上の男性と、何を話せと言うのだと最近はそればかりに頭を悩ませている。
今日、オーダーの際なんとなく懐かしくなってクリームソーダを頼んでしまったが、その時の彼の反応といったらなかった。
目を細めて鼻で笑った後、にやにやしながら僕の事をコーヒーが来るまでずっと眺めていた。
僕にとって彼は悪い人ではないが得体の知れない分、苦手な人になりつつあった。
急速に縮められていくパーソナルスペースは確実に悲鳴をあげている。
それとも都会に置けるコミュニケーションの取り方とはこうなのだろうかと思考を巡らせ、日々ナンパに勤しむ親友の事を思い出した。
僕がありえないと思っている彼の日課は、もしや都会ではスタンダードなものだったのか。そこまで考えてそれはないだろうと思い直す。池袋を歩いていて人を強引にお茶に誘ってくる面識ある人物なんて、親友とその知人しか見たことがない。もしかして二人は類友なのだろうか。
そこで僕は首をかしげる。親友がナンパの先に見るのは一夏のアバンチュールのような不純なものであるが、そうすると、彼は一体何を求めて自分と向かい合っているのだろうかと。
人差し指に嵌めた銀の指輪が視線誘導の役割を果たしていることに満足しながら、俺は彼の無防備な顔を眺めた。
幼い顔の前に置かれたクリームソーダが、そのあどけなさに拍車をかけている。薄い体に、数か月前まで中等学校で学ランを着ていたのだなと思うと、背徳的な気分になった。彼よりも若い子供を相手に、色々とちょっかいを出しているのにも関わらず。
こうして彼と向かい合うのは一度や二度のことではなかったが、最初に比べれば随分警戒を解いてくれたきがする。初めは奢ると言うと遠慮して逃げてしまった。なんとか店へ引きずりこんで注文を聞いても「同じものを」と言うばかりで、自分に合わせてブラックでコーヒーを飲む姿には健気さまで感じたものだ。
それが今ではメニューをめくって、クリームソーダなんて頼んでしまうのだから、俺は頬が緩むのを抑えることができなかった。
そもそもクリームソーダを同席者に頼まれることなど久しくなかった。あれは一定の期間を過ぎると途端に圏外に移動する限定メニューみたいなものだ。流石に子供っぽいと思ったのか、オーダーを終えた彼が居心地悪そうにしながら恥ずかしげに俯くものだから有りもしない庇護欲が疼いてしまった。
いつも変わり映えしない白と黒の卓上に、今日は緑の海があるのを見て嗤う。それは、まるで全く興味のない映画を観終わったときのような達成感と倦怠感に近しい。燃えやすくなるように新聞紙を捻ったり、油をまいたりする作業と似ているなと考えて、俺はついそれのことを忘れコーヒーカップに口付けた。
「…っ」
「折原さん?」
予期しない痛みに肩を揺らすと、彼はアイスクリームを弄る手を止めた。
「どうかしましたか?」
口元を押さえて顔をそむける俺を彼は覗き込むように見る。
「大丈夫ですか?」
「いや……、大丈夫」
恐る恐ると言った風にコーヒーカップを見ながら尋ねてくる彼に向けて微笑んで、再びカップを持ち上げそっとコーヒーを口に含む。
口腔内を熱く焼いて、熱だけが喉を滑って落ちていく。瞬間的な鋭い痛みからの鈍痛に苛立ちすら覚えた。痛みと同時に傷を受けた時のことを思い出して、悪態が口をついて出そうになる。
テーブルを挟んだ向こうで、スプーンを置いた小さな手が気遣うように中空を漂っている。
淡い色の瞳が不安気に揺れるのが心地よくて、俺はわざと表情のデフォルトを崩した。
「…この間シズちゃんと追いかけっこした時に口の中切っちゃってさあ。口内炎になってるんだよね。忘れてた」
「大丈夫なんですか?体とか、他に怪我をしたり…」
目に見えてうろたえる彼に、暴力にとても遠い場所にいるのだなと俺は思う。
顔をしかめて唇の端を指で撫でると、彼は引かれるように手を伸ばした。
爪の丸い、たやすく折れそうな手首の先が自分に向けられるのを望んではいたが、内心どこか冷めた目でそれを見つめる。
全てが自分の思いのままだ。
彼もまた内包された個でしかない。
俺はそっと目を伏せて彼の指先が自分の口許に触れるのを待った。
ゆっくりと近づいてくる自分以外の熱に、彼の細い吐息が頬にかかるほど近くにいるような錯覚がする。
「あの、折原さん…」
「…ん?」
その熱が遠ざかったのをいぶかしんで俺は顔をあげた。
「これ入れてみますか?温くなって飲みやすくなるかも知れません」
彼の指は冷たいスプーンを持って、解け残ったアイスクリームをすくっていた。
「ごちそうさまでした」
店の外でかばんのひもを握りしめる少年は、いつも深々と頭を下げる。
出会った時から変わることのない呼び名や態度が、今日に限って嫌に俺を焦燥させた。
「俺から誘ったんだから、良いんだって」
笑顔を浮かべながら彼の肩を抱こうと距離を詰める。見計らったかのようなタイミングでポケットの携帯電話が着信を告げた。
「ごめん」
彼に断りを入れて背を向けると、俺はコートから携帯を取り出し耳に当てる。要件を端的に告げる女の声に、「わかった」と言って通話を終えた。
ついてないな、と思う。
「ごめんね帝人君。ちょっと用ができたから、俺はこれで失礼させてもらうよ」
「あ、はい」
「うん。じゃあね」
俺は携帯を閉じて踵を返した。
次はいつ会いに来ようか。
「臨也さんっ」