きみを導くは光神
こうしん【光神】光を感ずる眼の能力。視細胞の棹状体に属する機能。
めくるめく五月、ひかり溢れる午後に緑が眩しい。いつもは霧と雨に包まれているここ英国にも晴々とした青空が広がっている。自国のじりじりと焼くような日射しではなく、柔らかく優しく降るこの地の光が好きだ。シエスタの眠りに落ちるまでのまどろみが好きだ。ひかりとかげとが目の前で交錯する。青空がちかくとおく。目蓋が落ちるままに、五月の風に身を任せる。思考もまた近く遠く、過去と現在とを滑り始めた。
ふたつのイギリスを俺は知っていた。ひとつは、緑の荒野で弓を握りしめながら震えていたちいさな子供。もうひとつは大海原をひたすら進んだ人を寄せ付けぬ背中。古い記憶を探ってみると、彼はいつもあの大きな緑の眼に緊張を湛えていた。
彼は自分が心を許したもの以外に使う言葉を持っていなかったが、彼の眼がすべてを語っていた。深い森のみどり。ひかりを反射してきらきらと輝くそれは確かに幼いこどものものだった。絶望にくすみながらも、そこには確かに生きようという意志がみえた。それは希望だった。こどもというのは誰もが生まれながらにして希望を抱いているものだと思う。それ故尊い。
ちいさなこどもは絶望と希望の間で大きくなった。
そしてあの女王の即位。大国である自分を脅かすまでの存在になりつつあった。
「あのバージン・クイーンには十万の悪魔が巣喰っている」
酷く毒づいたあの駐英大使はなんという名だったか。
事実英国は、悪魔が手を貸したのではないかと疑われるようなはやさで成長を遂げていった。
英国への進軍が決まったのは五月の半ばだった。力で捩じ伏せ、服従させる。その対象がまたひとつ増えただけのことだと思っていた。しかし、運命というにはあまりにもよくあるエゴイズムの対立による陳腐な戦いを経て、少なくとも俺たちの国としての命運は大きく変わったのだった。無敵艦隊は撃破され、そうして俺はイギリスの前に膝をついた。
硝煙と血の臭いが残る甲板で久しぶりに正面からその緑の目を見た。
「・・・変わらんなぁ、」
その目だけは。
「・・・何がだ、」
「別に、お前は初めて会うた時もそないな目しとったなって・・・敵意剥き出しのな・・・、こうやって戦って奪い合って、虚しいだけやんな、」
「ハッ、負け犬が・・・お前だって破壊と侵略を繰り返して、そのお陰ででかくなりやがったんじゃねぇか、」
「せやな、」
自分の喉から思ったよりも情けない声が出たことに驚く。
「…太陽の沈まない国が聞いて呆れんなぁ!・・・・・・俺は、生きる為にはなんでもする。生き残りたい。それが国民の総意であろうとなかろうと。俺は俺の意志で生き残る。」
他の何を傷つけても俺は生きる、とぽつりと言ったその眼があまりにも綺麗で見とれてしまった。同時にその眼の奥に潜んでいるさびしさにも気付いてしまった。胸が締めつけられる。夕日のなか海にそびえ立つあの白い壁を見た時も、こんな風に苦しかった。潔癖を良しとしながら、その手を血に染めて生き延びてきたイギリス。しかし強固なその壁はただ白さを保って静かに鎮座していた。剥き出しの白の下のかなしみが夕日に滲んで見えた。
「なんでや・・・なんでお前の目見ると、こんなに・・・」
「おいスペイン・・・?」
「そんな目すんなや…そんなさびしそうな目・・・・・・せんといて、」
その目に引き寄せられるように、いつの間にかイギリスの頬に手が延びていた。
「お前のきれーな目に俺の目の緑色が映っとる、」
「っ止めろ・・・!」
「意外に無防備やんなぁ、」
「・・・っ、うるさい・・・っ、おい!誰かこいつを船倉に連れていけ!」
それから国に帰り着くまでに、ついぞイギリスと話すことはなかった。暗い船倉で考えていたのは、敗れた自分の行く末ではなく、卑怯な海賊のことだった。緑色の眸がちらちらと目の前で踊る。どうしてだろう、それが暗闇に包まれた船底で唯一のひかりに思えた。
経験が俺たちを強くしたり、臆病にしたりした。遥かな時の中で出会いと別れを繰り返した。かなしみもよろこびも人と同じように享受しながら、辿ってきた歴史と同じように感情が蓄積される。時折耐えられなくなる。俺たちは孤独を醸成させながら生きているのだと、時折この存在の耐えられない軽さが重くのしかかってくる。
そんな時にいつもあの眸を思い出す。深い森のみどり。ちいさなちいさなイングランドを隠すように守っていたあの奥深い森の孤独を映した色。それでいてまるで植物のような生命力を持っていた。彼は孤独を喰らい尽くすように生きた。
世界は欲望で動いている。俺たちは欲望によって生かされているのだ。
弔いの鐘が英国全土を覆うように鳴り響いている。
その重い音色は時の女王ヴィクトリアの崩御を告げていた。またひとり、彼の愛する者が去っていく。人間の一生は短い。そう分かってはいても、愛した者との別れは受け入れがたい。
夕刻の墓前に彼女を深く愛し、また深く愛された彼の国は居た。イギリスは目を閉じて祈っているようだった。酷く歳をとって見える。冬の英国の冷たい風が身を凍らせた。
「未だに、慣れないもんだ・・・」
「せやな・・・何度もこうして見送ってきたけど、慣れないもんや、」
「・・・っスペイン!てめぇいつから・・・」
「さっきからずっとおったけど。」
「・・・・・・そうか、」
沈んだ太陽の残光でイギリスの表情は見えなかったが、依然として目線は彼女を護る冷たい石へと向けられていた。強固な墓石は彼女と自分たちの境界を明らかにしている。もう彼女は自分達と世界が異なるのだ。手袋を外したイギリスの白い指先が墓石に触れた。名前をなぞる。指先から愛惜があふれだす。
ああ、貴女は本当に彼の国にあいされていたのですね。ありがとう、今までイギリスと共に歩いて来てくれて。悔しいことに、自分の知り得ないイギリスが貴女の前には居たんだろう。でもイギリスをここまで連れてきてくれてありがとう。どうか安らかに。安らかに眠って下さい。
「祈ることしか出来へんけど・・・安らかに眠ってほしいなぁ・・・」
「ああ…俺たちはいつでも祈ることしか出来ない。でもこれで彼女を元の場所に帰してやれた。、
「けど、さびしいやろ」
「・・・ああ、」
寂しいのは彼女が逝ってしまったことか、それとも祈るしか出来ないことか。
「・・・さびしいのに生きていけてしまう自分が嫌で仕方ない。」
眉間に皺を寄せてきつく目を閉じるイギリスが痛々しい。
「・・・自分をそない簡単に手放せる奴なんて、そうそう居らんよ。」
数え切れない人やものを失っても、自分が死なない限り生きていくのだろう。永いながい歴史のなかで、この手から滑り落ちたものは多すぎて覚えていない。自分で捨てたものも数え切れないほどある。それでも自分自身だけはどうしても手放せなかった。
「自分が愛したものや憎んだもの、俺に関わったもの、人・・・その全てが俺に自分を忘れさせてくれへん、けど、それって、ひとりじゃないってことやんな」
イギリス、お前も俺を自分たらしめる一部分なんだ。そして多分それはとても尊いこと。
めくるめく五月、ひかり溢れる午後に緑が眩しい。いつもは霧と雨に包まれているここ英国にも晴々とした青空が広がっている。自国のじりじりと焼くような日射しではなく、柔らかく優しく降るこの地の光が好きだ。シエスタの眠りに落ちるまでのまどろみが好きだ。ひかりとかげとが目の前で交錯する。青空がちかくとおく。目蓋が落ちるままに、五月の風に身を任せる。思考もまた近く遠く、過去と現在とを滑り始めた。
ふたつのイギリスを俺は知っていた。ひとつは、緑の荒野で弓を握りしめながら震えていたちいさな子供。もうひとつは大海原をひたすら進んだ人を寄せ付けぬ背中。古い記憶を探ってみると、彼はいつもあの大きな緑の眼に緊張を湛えていた。
彼は自分が心を許したもの以外に使う言葉を持っていなかったが、彼の眼がすべてを語っていた。深い森のみどり。ひかりを反射してきらきらと輝くそれは確かに幼いこどものものだった。絶望にくすみながらも、そこには確かに生きようという意志がみえた。それは希望だった。こどもというのは誰もが生まれながらにして希望を抱いているものだと思う。それ故尊い。
ちいさなこどもは絶望と希望の間で大きくなった。
そしてあの女王の即位。大国である自分を脅かすまでの存在になりつつあった。
「あのバージン・クイーンには十万の悪魔が巣喰っている」
酷く毒づいたあの駐英大使はなんという名だったか。
事実英国は、悪魔が手を貸したのではないかと疑われるようなはやさで成長を遂げていった。
英国への進軍が決まったのは五月の半ばだった。力で捩じ伏せ、服従させる。その対象がまたひとつ増えただけのことだと思っていた。しかし、運命というにはあまりにもよくあるエゴイズムの対立による陳腐な戦いを経て、少なくとも俺たちの国としての命運は大きく変わったのだった。無敵艦隊は撃破され、そうして俺はイギリスの前に膝をついた。
硝煙と血の臭いが残る甲板で久しぶりに正面からその緑の目を見た。
「・・・変わらんなぁ、」
その目だけは。
「・・・何がだ、」
「別に、お前は初めて会うた時もそないな目しとったなって・・・敵意剥き出しのな・・・、こうやって戦って奪い合って、虚しいだけやんな、」
「ハッ、負け犬が・・・お前だって破壊と侵略を繰り返して、そのお陰ででかくなりやがったんじゃねぇか、」
「せやな、」
自分の喉から思ったよりも情けない声が出たことに驚く。
「…太陽の沈まない国が聞いて呆れんなぁ!・・・・・・俺は、生きる為にはなんでもする。生き残りたい。それが国民の総意であろうとなかろうと。俺は俺の意志で生き残る。」
他の何を傷つけても俺は生きる、とぽつりと言ったその眼があまりにも綺麗で見とれてしまった。同時にその眼の奥に潜んでいるさびしさにも気付いてしまった。胸が締めつけられる。夕日のなか海にそびえ立つあの白い壁を見た時も、こんな風に苦しかった。潔癖を良しとしながら、その手を血に染めて生き延びてきたイギリス。しかし強固なその壁はただ白さを保って静かに鎮座していた。剥き出しの白の下のかなしみが夕日に滲んで見えた。
「なんでや・・・なんでお前の目見ると、こんなに・・・」
「おいスペイン・・・?」
「そんな目すんなや…そんなさびしそうな目・・・・・・せんといて、」
その目に引き寄せられるように、いつの間にかイギリスの頬に手が延びていた。
「お前のきれーな目に俺の目の緑色が映っとる、」
「っ止めろ・・・!」
「意外に無防備やんなぁ、」
「・・・っ、うるさい・・・っ、おい!誰かこいつを船倉に連れていけ!」
それから国に帰り着くまでに、ついぞイギリスと話すことはなかった。暗い船倉で考えていたのは、敗れた自分の行く末ではなく、卑怯な海賊のことだった。緑色の眸がちらちらと目の前で踊る。どうしてだろう、それが暗闇に包まれた船底で唯一のひかりに思えた。
経験が俺たちを強くしたり、臆病にしたりした。遥かな時の中で出会いと別れを繰り返した。かなしみもよろこびも人と同じように享受しながら、辿ってきた歴史と同じように感情が蓄積される。時折耐えられなくなる。俺たちは孤独を醸成させながら生きているのだと、時折この存在の耐えられない軽さが重くのしかかってくる。
そんな時にいつもあの眸を思い出す。深い森のみどり。ちいさなちいさなイングランドを隠すように守っていたあの奥深い森の孤独を映した色。それでいてまるで植物のような生命力を持っていた。彼は孤独を喰らい尽くすように生きた。
世界は欲望で動いている。俺たちは欲望によって生かされているのだ。
弔いの鐘が英国全土を覆うように鳴り響いている。
その重い音色は時の女王ヴィクトリアの崩御を告げていた。またひとり、彼の愛する者が去っていく。人間の一生は短い。そう分かってはいても、愛した者との別れは受け入れがたい。
夕刻の墓前に彼女を深く愛し、また深く愛された彼の国は居た。イギリスは目を閉じて祈っているようだった。酷く歳をとって見える。冬の英国の冷たい風が身を凍らせた。
「未だに、慣れないもんだ・・・」
「せやな・・・何度もこうして見送ってきたけど、慣れないもんや、」
「・・・っスペイン!てめぇいつから・・・」
「さっきからずっとおったけど。」
「・・・・・・そうか、」
沈んだ太陽の残光でイギリスの表情は見えなかったが、依然として目線は彼女を護る冷たい石へと向けられていた。強固な墓石は彼女と自分たちの境界を明らかにしている。もう彼女は自分達と世界が異なるのだ。手袋を外したイギリスの白い指先が墓石に触れた。名前をなぞる。指先から愛惜があふれだす。
ああ、貴女は本当に彼の国にあいされていたのですね。ありがとう、今までイギリスと共に歩いて来てくれて。悔しいことに、自分の知り得ないイギリスが貴女の前には居たんだろう。でもイギリスをここまで連れてきてくれてありがとう。どうか安らかに。安らかに眠って下さい。
「祈ることしか出来へんけど・・・安らかに眠ってほしいなぁ・・・」
「ああ…俺たちはいつでも祈ることしか出来ない。でもこれで彼女を元の場所に帰してやれた。、
「けど、さびしいやろ」
「・・・ああ、」
寂しいのは彼女が逝ってしまったことか、それとも祈るしか出来ないことか。
「・・・さびしいのに生きていけてしまう自分が嫌で仕方ない。」
眉間に皺を寄せてきつく目を閉じるイギリスが痛々しい。
「・・・自分をそない簡単に手放せる奴なんて、そうそう居らんよ。」
数え切れない人やものを失っても、自分が死なない限り生きていくのだろう。永いながい歴史のなかで、この手から滑り落ちたものは多すぎて覚えていない。自分で捨てたものも数え切れないほどある。それでも自分自身だけはどうしても手放せなかった。
「自分が愛したものや憎んだもの、俺に関わったもの、人・・・その全てが俺に自分を忘れさせてくれへん、けど、それって、ひとりじゃないってことやんな」
イギリス、お前も俺を自分たらしめる一部分なんだ。そして多分それはとても尊いこと。