QA
夏休みに入る前が忙しい職業だとはわかっていたが、オレ達にとっての緊急事態が起こったんだから仕方が無い。何時になっても良いからとメールを送ると、なるべく早く帰るね、と返信が届いた。たったその一文で、思い切り眉毛を下げて困った様な栄口の笑顔が浮かぶんだから、多分オレは重症なんだと思う。
社会人になって三ヶ月の研修期間、オレは工場のラインに入ったり慣れないネクタイを締めて飛び込み営業をさせられたりと、技術職での採用とは思えない日々を送っていた。会社の業務内容を身を持って知れという事らしいが、一枚でも多く名刺を配った所で何になるというんだ。
愚痴を聞いてもらい、ただひたすら甘えたくても教師生活三年目の栄口は相変わらず忙しそうにしていて、そんな余裕は無さそうだった。十五歳も年下の奴らに嫉妬しつつ、見栄っ張りのオレは結局物わかりの良い人間を装ってしまう。
コンコンと音がして、閉じていた目を開けると窓の外に栄口が申し訳無さそうな顔をして立っていた。車のエンジンを止め、ドアを開ける。
「ごめん、遅くなった」
「いや、こっちこそ急に呼び出して悪かったな」
「それはいいんだけど…。店の中で待ってれば良かったのに」
「注文もしないで座ってるのも居心地わりーだろ」
「いくら暑くても、エンジンつけっぱなしは良くないよ」
アイドリングストーップ! と笑って窘められて、バツが悪かった。気を付ける、と小さく呟くと、腹減ったー! と栄口はオレの背中を軽く叩いて店内に入って行く。こんなささやかな幸せが、しばらくお預けになるのかと思うと食欲も湧かなかった。
「で、どうしたの?」
オーダーを済ませると、水を一口飲んだ栄口が穏やかな表情を作って緊急招集の理由を尋ねてきた。良い話じゃ無い事は栄口もわかっているらしい。早くも汗を掻いてきたグラスを落ち着かない様子で触り、遊ぶように指を濡らしていた。
「今月末で研修期間が終わるんだけど」
「あ、そっか。そうだったよね」
「配属先、北見になった」
きたみ? と漢字が思い浮かばないような口調で聞き返される。今、栄口の頭の中では凄い勢いで埼玉を中心とした日本地図が展開されているのだろう。
「北見。北海道」
「ほっ……」
繰り返されそうになった言葉が途中で詰まる。オレを見つめたまま何も言えなくなっている栄口に何かフォローをしようと思っても、焦るばかりで気の利いた言葉が全く浮かんでこなかった。
おまたせしましたー! という店員の明るい声がして、目の前に決して丁寧とは言えない手つきで料理が置かれる。湯気と共に立ち上る良い香りに、沈んだ空気が少しだけ払拭された。
「とりあえず、伸びない内に食べよう?」
無理矢理笑った栄口が差し出した割り箸を受け取って二つに割ると、向かいからあっと声が上がる。視線を向けると、栄口は情けない表情をして使い難そうに割れた箸を手にしていた。
相変わらず不器用だな、と栄口の手から不格好な箸を取り上げ、自分の分を栄口の丼の上に置く。
「阿部! 怪我でもしたらどうすんだよ」
「お前がするよりマシ」
「もう一本割ればいいだろ」
「地球温暖化に配慮したんだよ」
「そのムカつく笑い方、昔から変わらないよねー」
「ムカつくって何だよ」
「いっただっきまーす」
憮然としているオレを無視して、栄口がレンゲを手にしてスープを啜った。良かった。いつも通りの二人のやり取りに戻っている。
麺を啜る音と、食器がぶつかる音だけが響く。オレは箸の使い難さを悟られ無いよう、いつも以上に食事に集中していた。普段はよく喋る栄口が食事中だけは必要以上に口をきかないのは、多分栄口家の躾なんだろう。
「ごちそーさまでした! はー旨かった!」
「お前、汗すげーぞ……」
「阿部だって人の事言えないよー」
阿部は汗っかきだからなーとニッと歯を見せて笑うと、栄口はピッチャーを手にして二つの空のグラスに水を注いだ。それを一気に飲み干し、伝票を手にして立ち上がる。
「ごちそうさまー」
ありがとーございまーすと独特の節をつけて、あまり心の籠っていない感謝の言葉を述べながら店員がレジに向かってきた。他人と接する場面を任せてしまう事が多いのは、栄口の愛想の良さと、オレの無愛想さを自覚しているからに他ならない。誰だって、感じの良い方が嬉しいに決まっている。
一足先に店の外に出ると、思っていたより蒸し暑さを感じなかった。緩めた首もとから夜風が入り、汗が冷えて気持ちが良い。
「お待たせ」
後から出てきた栄口が、オレにレシートを差し出すとフッと息を吐くように笑った。
「何?」
「オレさ、阿部が二人で出掛けた時の出費を記録しているの、まだ独身なのに生活感が溢れていて最初はイヤだったんだよなー」
「……」
「だけど、こういうのも無くなるのかと思ったら今ちょっと寂しくなって」
「栄口」
「観光スポット調べておいてよ。るるぶとかに載ってない、地元の人しか知らないような穴場の店とか」
「……オレ遊びに行くんじゃねーんだけど」
「夏休みに行くから」
栄口が笑う。泣きながら、笑う。
「会いに行くからさ、仕事、頑張れよ」
照明が煌々と漏れる店の前でこんな会話を始めたのは、オレにも、自分にも、簡単に甘えられる手段を取らせない為の栄口なりの決意だろう。
惹かれ始めたのは、柔和な印象だった栄口のこういう一面を知ってからだった。知り合ってもう十年近くなるのに、未だに栄口には敵わなくて悔しい思いをさせられる。
「わかった。……頑張るから、お前は待ってろよ」
「……会いに来るなって事?」
「そうじゃねーよ」
一世一代の告白のつもりだったのに、意図が伝わっていなくてオレはがっくりと項垂れた。また言葉が足りなかったか。高校時代はコミュニケーション能力の低いオレ達バッテリーの通訳をしていたぐらい察しが良い栄口も、自分の事となると驚くぐらいに鈍感だった。
「オレは実家を継ぐ。長男だからってのもあるけど、ガキの頃から親父の仕事を間近で見て、そのつもりで勉強もしてきた。将来的にはシュンと二人で事業を拡げられたらいいとも考えてる。ただ親父とも話し合って、一度社会に出て色々経験を積む為の期間が必要だろうって事で外で就職した」
栄口は黙って、先を促すように頷く。
「跡を継いだら、お前と一緒に暮らそうと思ってる。だから、それまで待ってろって言う意味」
一気に話して、大きく一つ息を吐いてから栄口を見た。驚いているような、機嫌の悪いような、何とも言えない表情をして首を傾げている。
「……嫌なのかよ」
「そうじゃないけど」
そう言うと栄口は、不満気に口を尖らせて睨むようにオレを見た。
「阿部はさー、いつも勝手に決めちゃうよね。今までは結果的に上手くやってこれたけど、これからは物理的な距離も出来るんだから、二人の事はちゃんと話し合って、納得してから決めたい」
ほらまただ。気付かれないように先回りしたつもりだったのに、どうしていつも栄口はオレの半歩先を進んでいるんだ。
栄口に認めてもらいたくて取った選択が裏目に出た。恥ずかしくて情けなくて、俯くしかないオレの耳元に栄口が囁きかける。
「でもまあ、嬉しかったよ、プロポーズ」
社会人になって三ヶ月の研修期間、オレは工場のラインに入ったり慣れないネクタイを締めて飛び込み営業をさせられたりと、技術職での採用とは思えない日々を送っていた。会社の業務内容を身を持って知れという事らしいが、一枚でも多く名刺を配った所で何になるというんだ。
愚痴を聞いてもらい、ただひたすら甘えたくても教師生活三年目の栄口は相変わらず忙しそうにしていて、そんな余裕は無さそうだった。十五歳も年下の奴らに嫉妬しつつ、見栄っ張りのオレは結局物わかりの良い人間を装ってしまう。
コンコンと音がして、閉じていた目を開けると窓の外に栄口が申し訳無さそうな顔をして立っていた。車のエンジンを止め、ドアを開ける。
「ごめん、遅くなった」
「いや、こっちこそ急に呼び出して悪かったな」
「それはいいんだけど…。店の中で待ってれば良かったのに」
「注文もしないで座ってるのも居心地わりーだろ」
「いくら暑くても、エンジンつけっぱなしは良くないよ」
アイドリングストーップ! と笑って窘められて、バツが悪かった。気を付ける、と小さく呟くと、腹減ったー! と栄口はオレの背中を軽く叩いて店内に入って行く。こんなささやかな幸せが、しばらくお預けになるのかと思うと食欲も湧かなかった。
「で、どうしたの?」
オーダーを済ませると、水を一口飲んだ栄口が穏やかな表情を作って緊急招集の理由を尋ねてきた。良い話じゃ無い事は栄口もわかっているらしい。早くも汗を掻いてきたグラスを落ち着かない様子で触り、遊ぶように指を濡らしていた。
「今月末で研修期間が終わるんだけど」
「あ、そっか。そうだったよね」
「配属先、北見になった」
きたみ? と漢字が思い浮かばないような口調で聞き返される。今、栄口の頭の中では凄い勢いで埼玉を中心とした日本地図が展開されているのだろう。
「北見。北海道」
「ほっ……」
繰り返されそうになった言葉が途中で詰まる。オレを見つめたまま何も言えなくなっている栄口に何かフォローをしようと思っても、焦るばかりで気の利いた言葉が全く浮かんでこなかった。
おまたせしましたー! という店員の明るい声がして、目の前に決して丁寧とは言えない手つきで料理が置かれる。湯気と共に立ち上る良い香りに、沈んだ空気が少しだけ払拭された。
「とりあえず、伸びない内に食べよう?」
無理矢理笑った栄口が差し出した割り箸を受け取って二つに割ると、向かいからあっと声が上がる。視線を向けると、栄口は情けない表情をして使い難そうに割れた箸を手にしていた。
相変わらず不器用だな、と栄口の手から不格好な箸を取り上げ、自分の分を栄口の丼の上に置く。
「阿部! 怪我でもしたらどうすんだよ」
「お前がするよりマシ」
「もう一本割ればいいだろ」
「地球温暖化に配慮したんだよ」
「そのムカつく笑い方、昔から変わらないよねー」
「ムカつくって何だよ」
「いっただっきまーす」
憮然としているオレを無視して、栄口がレンゲを手にしてスープを啜った。良かった。いつも通りの二人のやり取りに戻っている。
麺を啜る音と、食器がぶつかる音だけが響く。オレは箸の使い難さを悟られ無いよう、いつも以上に食事に集中していた。普段はよく喋る栄口が食事中だけは必要以上に口をきかないのは、多分栄口家の躾なんだろう。
「ごちそーさまでした! はー旨かった!」
「お前、汗すげーぞ……」
「阿部だって人の事言えないよー」
阿部は汗っかきだからなーとニッと歯を見せて笑うと、栄口はピッチャーを手にして二つの空のグラスに水を注いだ。それを一気に飲み干し、伝票を手にして立ち上がる。
「ごちそうさまー」
ありがとーございまーすと独特の節をつけて、あまり心の籠っていない感謝の言葉を述べながら店員がレジに向かってきた。他人と接する場面を任せてしまう事が多いのは、栄口の愛想の良さと、オレの無愛想さを自覚しているからに他ならない。誰だって、感じの良い方が嬉しいに決まっている。
一足先に店の外に出ると、思っていたより蒸し暑さを感じなかった。緩めた首もとから夜風が入り、汗が冷えて気持ちが良い。
「お待たせ」
後から出てきた栄口が、オレにレシートを差し出すとフッと息を吐くように笑った。
「何?」
「オレさ、阿部が二人で出掛けた時の出費を記録しているの、まだ独身なのに生活感が溢れていて最初はイヤだったんだよなー」
「……」
「だけど、こういうのも無くなるのかと思ったら今ちょっと寂しくなって」
「栄口」
「観光スポット調べておいてよ。るるぶとかに載ってない、地元の人しか知らないような穴場の店とか」
「……オレ遊びに行くんじゃねーんだけど」
「夏休みに行くから」
栄口が笑う。泣きながら、笑う。
「会いに行くからさ、仕事、頑張れよ」
照明が煌々と漏れる店の前でこんな会話を始めたのは、オレにも、自分にも、簡単に甘えられる手段を取らせない為の栄口なりの決意だろう。
惹かれ始めたのは、柔和な印象だった栄口のこういう一面を知ってからだった。知り合ってもう十年近くなるのに、未だに栄口には敵わなくて悔しい思いをさせられる。
「わかった。……頑張るから、お前は待ってろよ」
「……会いに来るなって事?」
「そうじゃねーよ」
一世一代の告白のつもりだったのに、意図が伝わっていなくてオレはがっくりと項垂れた。また言葉が足りなかったか。高校時代はコミュニケーション能力の低いオレ達バッテリーの通訳をしていたぐらい察しが良い栄口も、自分の事となると驚くぐらいに鈍感だった。
「オレは実家を継ぐ。長男だからってのもあるけど、ガキの頃から親父の仕事を間近で見て、そのつもりで勉強もしてきた。将来的にはシュンと二人で事業を拡げられたらいいとも考えてる。ただ親父とも話し合って、一度社会に出て色々経験を積む為の期間が必要だろうって事で外で就職した」
栄口は黙って、先を促すように頷く。
「跡を継いだら、お前と一緒に暮らそうと思ってる。だから、それまで待ってろって言う意味」
一気に話して、大きく一つ息を吐いてから栄口を見た。驚いているような、機嫌の悪いような、何とも言えない表情をして首を傾げている。
「……嫌なのかよ」
「そうじゃないけど」
そう言うと栄口は、不満気に口を尖らせて睨むようにオレを見た。
「阿部はさー、いつも勝手に決めちゃうよね。今までは結果的に上手くやってこれたけど、これからは物理的な距離も出来るんだから、二人の事はちゃんと話し合って、納得してから決めたい」
ほらまただ。気付かれないように先回りしたつもりだったのに、どうしていつも栄口はオレの半歩先を進んでいるんだ。
栄口に認めてもらいたくて取った選択が裏目に出た。恥ずかしくて情けなくて、俯くしかないオレの耳元に栄口が囁きかける。
「でもまあ、嬉しかったよ、プロポーズ」