芝桜
いくら集中工事ったって、普通は交通量の少ない深夜にちょっとずつ進めておくもんじゃないのか。わざわざ通勤時間まで片側車線通行にする程、急いでこの道路を修繕しなきゃいけねーようには思えねーんだけど。
心の中でいくら文句を言ったって、この渋滞から抜け出せ無いのはわかっていた。幸いまだ時間に余裕はある。オレは動けない車の中で腕組みをしながら工事車両を睨み、最短ルートを組立てていた。
生活圏内から離れてしまうと全く足を踏み入れなくなるもんだな、と記憶とはだいぶ違う風景を眺めながら車を気持ちゆっくりと走らせる。この先を曲がれば、アイツの家。最後にこの辺りに来たのは、家に遊びに行った高校生の頃だ。
畑が潰れ、小さく新しい家が犇めいているその先。
思い出の地には見覚えのないログハウスが建っていた。
……え?
緩い上り坂のその道は、アクセルペダルから足を離すだけでスピードが落ちていく。後続車が来ない事を確認し、オレは吸い込まれるようにハンドルを切りながら駐車場へと入って行った。
外見からは判断できなかったそこは、パン屋だった。
恐る恐る扉を開くと中から熱気と共にバターの香りが流れ、春先とは言えまだ冷たい外気に溶け込んで行く。
いらっしゃいませ、おはようございます、と真っ白なクックコートに身を包み、赤いバンダナを頭に巻いた小柄な店員に声を掛けられたその直後、
「阿部くん……だよね?」
わあ久しぶり! 随分大人っぽくなっちゃったから、わからなかったよー! と駆け寄られ、勢いに押されたオレは一歩後退った。
「えっと、覚えてないかなー? 私、栄口勇人の姉です」
あ……、とオレは口を開け、それから姿勢を正してご無沙汰しております、と非礼を詫びるように深々と頭を下げると、もしかしてお母さんから何も聞いて無かった? と栄口の姉ちゃんは楽しそうに笑う。
相変わらず、良く似ていた。
今思えば、オレは栄口の事が好きだったんだと思う。友達としてじゃなくて、なんつーの? 小っ恥ずかしい言葉を使えば、恋。
それまで男はもちろん、女相手にもそんな感情を抱いた事が無かった当時のオレは、その気持ちのやり場に困っていた。本当はわかっていたのに、自分を騙して否定し続けた結果、ただのチームメイトのまま高校を卒業する羽目になったけど。あの時ばかりは、自分の素直じゃない性格に嫌気が差した。
卒業してすぐは頻繁に連絡を取り合っていた硬式野球部一期生も、段々と新しい生活に重点が置かれるようになるのは当然の事で、今では年に数回集まる程度。栄口と会うのもその時ぐらいで、実家暮らしだし職場も近くて楽してるよ、とこの前話していたのを思い出した。
「あの、さかえ……勇人くんは、ここにはもういないんですか?」
「いるよー。ちょっと大きいのが建ったけど、家はそのまま残ってるから安心して」
今日はもう出ちゃってるかなー、と壁掛け時計を確認してから栄口の姉ちゃんが外に出て、店の裏を覗く。
「車無いから、行っちゃったみたい。阿部くんが来てくれた事は伝えておくね」
これ良かったら、とレジ前にあったスコーンの詰め合わせを渡され、オレは礼を言ってからすごすごと退散した。
あれだ、子供のおつかいみたいだ。
帰宅の挨拶がてらリビングに顔を出すと、母親が片付け物をしながらおかえり、スコーンは? と唐突に訊ねてきた。
「は?」
「スコーン。栄口くんのお姉ちゃんのお店で貰ってきたんでしょ? 昼間行ったら、タカが来たって喜んでたわよ」
何だか知らないけど、うちの母親と栄口の姉ちゃんは昔から仲が良い。それは母親を亡くしている栄口家を気遣ってというものではなく、ただ単に気が合うからだけのようだった。
「いつから?」
「何が?」
「いつから栄口の家はパン屋になったんだよ」
「二月にオープンしたから、もうそろそろ二ヶ月になるかな」
タカに言わなかったっけー? とオレが手渡したビニール袋から視線を離さずに母親が言う。聞いてねー、と吐き捨てて、オレは自分の部屋へと向かった。
栄口に関する話を、オレが忘れる訳がないだろ!
それからオレは、渋滞回避だとルート変更の言い訳をしつつ毎朝栄口家で昼食用のパンを買った。ついでに防寒対策万全の格好でわざわざ冷え込む店先のテラスを選び、新聞を読みつつコーヒーを飲んでから出勤している。
そこから、栄口が運転する車を見送るのが日課になっていた。
十日ほど経ったある日、オレは日曜日だというのにいつも通り店に来ていた。コーチをしているシニアチームの練習前に朝食を摂りたかっただけで、他意は無い。
……と思う。
会計を済ませると、いつもありがとう、と栄口の姉ちゃんが厨房から出てきた。
「ごめんね。コーヒー今から落とすから、ちょっと待っててもらえる?」
時間平気? と申し訳無さそうに眉を下げられ、大丈夫です、と背筋を伸ばして答えると、持って行くから席で待っててね、と微笑まれた。
この、困ったような笑顔が一番似てる。
気の強さは変わんねーのにそれを上手く自制してチームの平穏を保っていた栄口が、血の気の多いオレに一番見せてくれていたあの笑顔。
栄口に無性に会いたくなった。こんなコソコソした真似、いつまでも続けていたくない。
「お待たせいたしました」
車一台通らない静かな屋外に、高めの声が凛と響く。勢い良く振り返ると、白すぎる湯気を立ちのぼらせたコーヒーを二つ運んできたのは、しっかりとコートを着込んだ栄口だった。姉ちゃんが呼んでくれたんだけど、オレこういうの慣れてないんだよね、と照れたように笑うと、トレイごとテーブルの上に置いてオレの向かいに腰を掛ける。
あまりのタイミングの良さに、思わず涙が出た。
「えっ! ちょっ! ごめん、ビックリさせちゃった?」
オレは俯き、無言で首を振ると慌てて立ち上がる栄口の肩を押して再び席に着くように促す。
「欠伸堪えただけだから」
「なんだー。もー脅かさないでよ」
阿部はブラックだったよね、じゃあミルクもらっちゃおうと栄口はコーヒーカップをオレの前にセットした。まるで毎日一緒にいた時のように、ごく自然な振る舞いで。
「久しぶりだな」
「そうだね。でもオレ、阿部と会ってもあんまそういう感じしないんだよなー」
「……何で?」
「姉ちゃんから話し聞くからさ。阿部んとこのおばさんもよく来てくれてるんだって」
じゃあ何で家では栄口の話題はあまり出ないんだ。
まあ何で、って言っても、大方自分の母親が一方的に喋っているんだろう。その姿が容易に想像できて溜息が出た。
「だから、ここん所阿部が毎日通ってくれている理由、オレわかるかも」
思わず固まってしまったオレに構わず、薄茶色になったコーヒーを啜ってから栄口が続ける。
「毎朝待っててくれたのに、起きてこれなくてごめんな。出て行く所を恨めしそうに阿部が見てるのには気が付いてたんだけど、申し訳無くてこっちから連絡しにくくてさ……」
こんな恥ずかしい事を、何で栄口はサラッと言えるんだ。オレは、どう返せばいいんだ。どういう態度でいればいいんだ。