影のない男の話
月が一年でいちばん近いはずの夜は、生憎空に厚い雲がかかり、小雨が降っていた。風邪ぎみの嫁さんが夕飯の食器を洗い終わって早々にダウンしたもんだから、三歳の娘をフロに入れて寝かしつけるのが、今夜は俺の仕事になってしまった。昼間にたっぷり公園で遊ばせたって言っていたからどうせ眠いだろう、おとなしく寝てくれるに違いないと思っていたら、これがてんで甘かった。積み木だのぬいぐるみだのを自分のまわりに要塞みたいに散らばして、まだ眠くないとぐずりにぐずる。ホントはもう眠いくせに。散々付き合わされ、最後にいっとうお気に入りの数字遊びの絵本をじっくり通しで……本当にじっくりだ、見開きにぎっちり詰め込まれた小鳥やケーキのろうそくの数なんかを、ひとつひとつ指差し確認で数えさせられるんだから……読み合わせさせられた俺がようやくちびから解放されたのは、0時を回る少し前だった。可愛いけど、さすがに疲れる、これは。
いったんは寝室に上がったものの、今度はこっちが妙に目が冴えて眠れなくなってしまった。こんなことを連日繰り返しているなんて母親というものはすごいもんだ、恐れ入ると思いながら、俺は寝酒をひっかけようと電気の消えた居間に戻った。そうしたらあいつがいた。月森だ。
あいつはダイニングテーブルに肘をついて座り、冷蔵庫に貼ってあった娘の描いた絵(花のような物と得体の知れない図形が組み合わさっている)を興味深そうに眺めていた。俺は死ぬほど驚いた。声も出なかった。それから、もちろんこれは夢なんだろうなとぼんやり思った。
月森と最後に会ったのは、何年前のことだろう。二年? 三年? いや、もっとかもしれない。大学卒業後、就職してからのスピードは年々早く、月日の感覚がはっきりしない。都内の百貨店と親父が勤めてるジュネス系列のスーパーの親会社と両方内定をもらった俺は、ちょっと悩んで百貨店のほうを選んだ。名前のイメージで決めたわけじゃない。そう当時は思っていたけれど、今となってみれば怪しいところもある。いつだか休みをもらって稲羽に顔を出したとき、「あんたの見栄はわかりやすいよね」と、学園祭の衣装にしか見えない婦警の格好をした里中があきれたふうに言った。恐ろしいことに、その服はコスプレじゃなくて本物なのだった。時間が流れるというのはそういうことだ。
稲羽へ戻って懐かしい面々に顔を合わせると、久しぶり、変わんないね、という挨拶を経て、地元に残っている奴らがこぞって聞いてくることがある。それは月森の安否だ。「彼、元気かなぁ」とか「先輩、どうしてる」とか、東京にいるお前が知らないはずはないだろうという前提で聞いてくる。大学卒業してからのことはあんまよくわかんないよ、と言うと、そりゃあそうかと頷きながら、どこか納得いかなそうな顔をする。
大学時代は、確かによく会っていた。それは本当だった。特に最後の一年間は、今どこにいると思う、と聞かれれば、八割の確立で言い当てられる程度には生活パターンも把握していたような気がする。バイトの曜日から授業が始まってひける時刻まで、おおむねは。
それなりにきっちり就活をやって、低くない倍率の、ただしなぜか職種はばらばらだったいくつかの会社から内定を出されたあいつは、取れた内定の中から中堅の通信社を選んでいた。しょっちゅう海外に飛んではほとんど日本に戻って来ない親の放蕩(または熱心な仕事ぶり?)に閉口してみせながら、そのうち似たようなことをやるんだろうなぁと思っていた俺は、その選択に大いに納得したのだった。その仕事も三年でやめ、愛用のカメラひとつを引っさげて、海外でフリーのジャーナリストのようなことをやっているらしいと聞いたときにも、さして驚きはしなかった。大手メーカーでがんがん昇進していると言われても、のんべんだらりと塾講師をやっていると言われても、きっと驚きはしないんだろう。あいつはそういう奴なのだ。何にでもなれそうだし、存在感はあるのに何者なのかあんまりはっきりしない。いつでも公平で平坦で、何を望んでいたのか、俺は最後までよくわからなかった。
キッチンの明かりだけがぼんやり灯るうすぐらいダイニングに現れた月森は立ちすくむ俺に気づき、顔を向けた。そうして、大学時代どころか高校生だった十五年前と一ミリも変わらない顔で親しげに微笑みかけてきた。比喩じゃなく、本当に一ミリも変わらないのだ。あの頃とまったく同じ髪型、同じ顔に同じ表情を貼りつけたあいつはご丁寧にも八十神高校の制服を着ていた。学ランの前を開けっぱなしにしているのに、なぜかだらしなくは見えないあの着方で。それは確かに、稲羽にいた頃のあいつに違いなかった。
「よう、パパ。ご苦労様。子育てもなかなか板についてるじゃないか」
軽く放たれたからかいに、俺はなにか反応しようとしてできなかった。ぽかんと口を半開きにして、ぼわぼわした暖色の明かりに包まれた月森とその襟元に留められた二年のバッチを、暗いリビングからじっと凝視していた。不可思議な出来事に対応する感覚がすっかり鈍っていたのだ。かつては、テレビの中にまでためらいなく乗り込んで行ったというのに。
「あのさ、頼みがあるんだ。多分ここにはあまり長くいられないと思う。悪いけど、ちょっと来てくれないか」
椅子から立ち上がった月森は、腕を上げて指先でソファの手前にあったテレビを指した。そのまま、ボーナスで買い換えたばかりだった真新しい液晶テレビに歩み寄る。昔、ジュネスの電化製品売り場にあったのと同じぐらい大画面のテレビだ。凍りついていた俺は、思わず壁の掛け時計を見上げた。時刻は十一時五十九分五十数秒。蛍光塗料を塗られた数字の上を横切った黒い秒針が今まさに頂上へ戻り、0時を指すところだった。
はっとしてテレビに視線を戻すと、真っ暗だった画面がふいに波立ち、電波状態が悪い時のような途切れがちの映像が浮かび上がる。マヨナカテレビ。ずいぶん長いこと忘れていた単語が脳内にひらめき、その響きの懐かしさに愕然とした。テレビの中へ入れなくなっていることに気づいてから、だいぶ久しかった。寂しかったけれど、それはもう必要がないからかもしれないとも思っていた。
乱れがおさまり次第に輪郭がはっきりしていく画面には、二年半通った高校の正門が映っている。ほとんど修行のような通学路だった長い坂道と、石組みの階段を抜けた先にある古めかしい門構え。西に傾きかけた日差しに照りつけられた桜の葉が時おり風に吹かれて、濃淡のついたみどり色がざわざわ揺れていた。蝉の鳴き声に混じって、グラウンドの遠いざわめきが校門の外まで聞こえてきている。放課後なのかもしれない。今にも初夏の焼けたアスファルトの匂いが感じ取れそうなほど、強烈に鮮明な光景だった。
いったんは寝室に上がったものの、今度はこっちが妙に目が冴えて眠れなくなってしまった。こんなことを連日繰り返しているなんて母親というものはすごいもんだ、恐れ入ると思いながら、俺は寝酒をひっかけようと電気の消えた居間に戻った。そうしたらあいつがいた。月森だ。
あいつはダイニングテーブルに肘をついて座り、冷蔵庫に貼ってあった娘の描いた絵(花のような物と得体の知れない図形が組み合わさっている)を興味深そうに眺めていた。俺は死ぬほど驚いた。声も出なかった。それから、もちろんこれは夢なんだろうなとぼんやり思った。
月森と最後に会ったのは、何年前のことだろう。二年? 三年? いや、もっとかもしれない。大学卒業後、就職してからのスピードは年々早く、月日の感覚がはっきりしない。都内の百貨店と親父が勤めてるジュネス系列のスーパーの親会社と両方内定をもらった俺は、ちょっと悩んで百貨店のほうを選んだ。名前のイメージで決めたわけじゃない。そう当時は思っていたけれど、今となってみれば怪しいところもある。いつだか休みをもらって稲羽に顔を出したとき、「あんたの見栄はわかりやすいよね」と、学園祭の衣装にしか見えない婦警の格好をした里中があきれたふうに言った。恐ろしいことに、その服はコスプレじゃなくて本物なのだった。時間が流れるというのはそういうことだ。
稲羽へ戻って懐かしい面々に顔を合わせると、久しぶり、変わんないね、という挨拶を経て、地元に残っている奴らがこぞって聞いてくることがある。それは月森の安否だ。「彼、元気かなぁ」とか「先輩、どうしてる」とか、東京にいるお前が知らないはずはないだろうという前提で聞いてくる。大学卒業してからのことはあんまよくわかんないよ、と言うと、そりゃあそうかと頷きながら、どこか納得いかなそうな顔をする。
大学時代は、確かによく会っていた。それは本当だった。特に最後の一年間は、今どこにいると思う、と聞かれれば、八割の確立で言い当てられる程度には生活パターンも把握していたような気がする。バイトの曜日から授業が始まってひける時刻まで、おおむねは。
それなりにきっちり就活をやって、低くない倍率の、ただしなぜか職種はばらばらだったいくつかの会社から内定を出されたあいつは、取れた内定の中から中堅の通信社を選んでいた。しょっちゅう海外に飛んではほとんど日本に戻って来ない親の放蕩(または熱心な仕事ぶり?)に閉口してみせながら、そのうち似たようなことをやるんだろうなぁと思っていた俺は、その選択に大いに納得したのだった。その仕事も三年でやめ、愛用のカメラひとつを引っさげて、海外でフリーのジャーナリストのようなことをやっているらしいと聞いたときにも、さして驚きはしなかった。大手メーカーでがんがん昇進していると言われても、のんべんだらりと塾講師をやっていると言われても、きっと驚きはしないんだろう。あいつはそういう奴なのだ。何にでもなれそうだし、存在感はあるのに何者なのかあんまりはっきりしない。いつでも公平で平坦で、何を望んでいたのか、俺は最後までよくわからなかった。
キッチンの明かりだけがぼんやり灯るうすぐらいダイニングに現れた月森は立ちすくむ俺に気づき、顔を向けた。そうして、大学時代どころか高校生だった十五年前と一ミリも変わらない顔で親しげに微笑みかけてきた。比喩じゃなく、本当に一ミリも変わらないのだ。あの頃とまったく同じ髪型、同じ顔に同じ表情を貼りつけたあいつはご丁寧にも八十神高校の制服を着ていた。学ランの前を開けっぱなしにしているのに、なぜかだらしなくは見えないあの着方で。それは確かに、稲羽にいた頃のあいつに違いなかった。
「よう、パパ。ご苦労様。子育てもなかなか板についてるじゃないか」
軽く放たれたからかいに、俺はなにか反応しようとしてできなかった。ぽかんと口を半開きにして、ぼわぼわした暖色の明かりに包まれた月森とその襟元に留められた二年のバッチを、暗いリビングからじっと凝視していた。不可思議な出来事に対応する感覚がすっかり鈍っていたのだ。かつては、テレビの中にまでためらいなく乗り込んで行ったというのに。
「あのさ、頼みがあるんだ。多分ここにはあまり長くいられないと思う。悪いけど、ちょっと来てくれないか」
椅子から立ち上がった月森は、腕を上げて指先でソファの手前にあったテレビを指した。そのまま、ボーナスで買い換えたばかりだった真新しい液晶テレビに歩み寄る。昔、ジュネスの電化製品売り場にあったのと同じぐらい大画面のテレビだ。凍りついていた俺は、思わず壁の掛け時計を見上げた。時刻は十一時五十九分五十数秒。蛍光塗料を塗られた数字の上を横切った黒い秒針が今まさに頂上へ戻り、0時を指すところだった。
はっとしてテレビに視線を戻すと、真っ暗だった画面がふいに波立ち、電波状態が悪い時のような途切れがちの映像が浮かび上がる。マヨナカテレビ。ずいぶん長いこと忘れていた単語が脳内にひらめき、その響きの懐かしさに愕然とした。テレビの中へ入れなくなっていることに気づいてから、だいぶ久しかった。寂しかったけれど、それはもう必要がないからかもしれないとも思っていた。
乱れがおさまり次第に輪郭がはっきりしていく画面には、二年半通った高校の正門が映っている。ほとんど修行のような通学路だった長い坂道と、石組みの階段を抜けた先にある古めかしい門構え。西に傾きかけた日差しに照りつけられた桜の葉が時おり風に吹かれて、濃淡のついたみどり色がざわざわ揺れていた。蝉の鳴き声に混じって、グラウンドの遠いざわめきが校門の外まで聞こえてきている。放課後なのかもしれない。今にも初夏の焼けたアスファルトの匂いが感じ取れそうなほど、強烈に鮮明な光景だった。