影のない男の話
その八高が映し出されたテレビに触れた月森の腕が沈み、歪んで霧散した映像の上に波紋が浮かぶ。続いてためらいなく頭が突っ込まれ、次に肩が、上半身が丸ごと沈む。床からふっと浮いたつま先までがテレビの中へ消える瞬間に、俺は黒い水面のような液晶に自分も腕と頭を突っ込んでいる。途端に吸い込まれた体が、あの覚えのある、目眩にも似た落下の感覚に飲みこまれた。久しぶりだったけれど体が覚えていたからか、驚くほど恐怖はなかった。ただ着地の衝撃は相変わらずひどくて、固い地面へしたたかに打ちつけた尻は悲鳴をあげる。
「っって〜〜」
尻と腰をさすりながらなんとか立ち上がって周りを見渡してみると、そこはさっき画面に映っていたままの、八高の校舎の前なのだ。入る場所もテレビも違うから入り口広場ではないにせよ、今まで探索したどのダンジョンとも関係のなさそうな場所だ。そもそもテレビの中は、花と緑に彩られた桃源郷のような元々の姿にかえったはずだった。でも、それともまた違う。
毎日通っていた頃と寸分たがわない景色にしばし呆然とした俺は、先に落ちてきていた月森が目線だけをこっちに寄こすと、何気なく校門をくぐり中へと入って行くのを見た。慌ててあとを追いかける。どこかにクマの奴がいるんじゃないかときょろきょろしてみたものの、そこは本当にただの学校で、クマの姿も見当たらない。
学内のグラウンドでは、炎天下のなか野球部が威勢良く声を張り上げて小さな白球を追いかけていた。笑いさざめきながら校舎から出てきた女子生徒が、脇を通り過ぎる。パジャマ姿で裸足の大人がうろうろしていたらさぞ不審がられるだろうと思ってひやりとしたけれど、俺はいつのまにか自分もちゃんと制服を着ていた。汗ばんだTシャツと、首まわりで揺れるヘッドフォン。一足歩くたびに履き慣れたスニーカーがよくなじむ弾力を返してくる。ああ、そうそう、こういう感じ、と思う。思って苦笑する。そういえばもう、しばらく忘れていたんだった。この地に足のつかない身軽な感じ、やみくもな万能感。
「屋上に行こう」
追いついて脇に並ぶと、月森はそう言った。こいつも冬服を着ていたはずなのに、涼しい顔で半そでのシャツに切り替わっている。疑問を差し挟む余地もなく、靴箱のところで上履きに履きかえて校舎の中までついていく。建物の中へ入り、急に暗くなった視界に目を細めながら階段を上る。
教室棟の二階まで上がると、二年二組の教室の前で、里中と天城が立ったまま熱心になにか話しこんでいた。それは高校生の頃の里中と天城だ。あの昔のままの緑のジャージと赤いカーディガンのくっきりした対比が視界に飛び込んできて、俺は思わず溜め息をもらす。
当時は、毎日顔を合わせているのにそんなに熱中してしゃべることがいつもあるのが不思議だった。何話してんの、と聞けば、里中は「男子は入ってこなくていーの」だとか言いながら鼻の頭に皺を寄せ、天城は黙ってにこにこしていた。
その後、学生じゃなくなった里中に、あのとき何の話しをしていたのか聞いてみたことがある。そうすると里中は、ええ、なんだったかなぁと首をひねった。それから軽く微笑んでこう言った。
「まぁ別にたいしたことじゃないよ。細かい内容なんて忘れちゃったよ。でも、楽しい話しだよ。たぶん私たちだけがね。子供だったのよ」
お互いの間だけで通じて笑いに変わる言葉でしゃべっていた二人は、そばまで寄るとやっと俺たちのことに気づく。壁に寄りかかっていた里中がぱっと顔を上げて、明るい色のまるいショートボブを揺らした。
「あれっ、おふたり、まだ残ってたんだ。揃ってどこ行くの?」
「ん? 屋上」
ごくふつうに受け答えているあいつと里中を、俺は近い遠くからショートフィルムを見るように眺めている。外に面した窓ガラス越しに差し込む光の上に、二人の影がくっきりと落ちている。
「ええ、屋上? こんなあっついのに、なんでこれまた」
「内緒話をしに」
「えーなになに、気になるぞ。あたしたちには言えないこと?」
「そうだなぁ。ちょっと、言えないかな」
「あーっ。さては、女の子に言えないような内容の話しなんだな! なんて悪い奴だ、花村めぇ!」
「なんで俺だけなんだよ!」
一人だけ睨まれてついいつもの調子で突っ込んだ俺は、目の前の絵のような景色に突然振ってわいた自分の声に少し驚いて、動揺をのみこむ。でも、俺が動揺していることには里中も天城も気づかない。天城は笑いをこらえて眉を下げる。ツボに入って笑い出すほどではないらしい。
「まだ日差しが強いから、熱射病にならないように気をつけてね」
笑いながら天城にちょっと頷いてみせて、二人に背を向けた月森の後ろを俺は大きく息を吸い込んでついていく。里中と天城はまた自分たちだけの言葉に戻って、途切れた話しの続きを始めていた。
十数段なのに異様に長く感じた階段を抜け、暗い踊り場のドアを開けると、西日が顔面にぶち当たってきた。今日はよく晴れているのに、屋上には俺たちの他には誰もおらず、ひっそりしている。さっきまで吹いていた風もやんで、すっかり凪のようになってしまった屋上は、突っ立っているだけで汗が噴き出してきた。ペンキの剥げた手すりを握って下をのぞくと、高さがまちまちなヒマワリとマリーゴールドが半々に植わった花壇が見えた。グラウンドからは相変わらず、潮騒みたいな運動部の声。俺はいま、本当の本当に高校生なんじゃないだろうかな、と、一瞬思った。こっちが本物で、さっきまでいた世界のほうが長い夢、とかそういう感覚。
「なつかしいな」
隣に並んで手すりにもたれた月森が、眼下に広がる町並みを取り囲む丘陵を見つめて夢みるように呟いた。それで俺は我に返る。ここは本物じゃない世界だ。どんなによく出来ていても、これは、過去の景色なのだ。その証拠に俺はここに来てからずっと、今や明日のことじゃなくて過ぎた昔のことを遡って考えている。
いったいどういうことだろう。どうなっているんだろう。混乱している頭を次々によぎる疑問を全部ぶつけていたらきりがなさそうだし、どこから聞いていいのかわからなかった。迷っていると、月森が口を開いた。
「聞いてほしいことがある。できれば怒らないで」
そうだ、人んちまでわざわざ出向いてきて、話しがある、と言ったのだ、こいつは。里中にも天城にも言えない内緒話が。
「……そんなの、内容によるだろーが。まぁ、善処は、するけど」
「うん」
胸をつけていた手すりからゆっくり上半身を起こした月森はこっちに体を向けた。怒るなという割に、緊張も狼狽もなにもない透き通るような目をしてる。俺はそっちに首を向けて、とつとつと語られはじめた言葉に耳を傾ける。
「大西洋の、フロリダ半島の近くの海でね、マイアミの飛行場から出発した八人乗りの小型旅客機が、行方不明になったんだ。想定外の濃い霧が発生して、計器が狂ってしまって」
月森の口からは、予想に反してだいぶ日常とかけ離れた話しが飛び出してきた。俺はちょっと面食らう。
「へ? 何だそれ。お前の追っかけてたニュースとか?」