影のない男の話
夢の中でけたたましく携帯のアラームが鳴っていた。目を開けたら着替えて顔を洗って、ボロい自転車を騙し騙ししながら急勾配の坂を上り学校まで行くことを考えると、あまり起きたい気分じゃなかった。でも、遅刻して朝っぱらからモロキンに嫌味をたらたら言われるのもごめんだ。それで、あと五分と逃げる気持ちに蹴りをつけてなんとか瞼を上げる。
ベッドの上に起き上がろうとした俺は、自分がベッドどころかダイニングテーブルに突っ伏して眠っていることに気がついてぎょっとした。しかも、てっきりアラームだとばかり思っていた携帯には、開くと見覚えのある名前と電話番号が表示されていた。月森からの着信だ。こんな朝早くから掛けてくるなんて、緊急事態かもしれない。俺は慌てて通話ボタンを押す。
「はいよ、起きてるよ」
あくび混じりに応答したけれど、通話口からはどこか雑踏の喧騒がざわざわ聞こえるばかりで、肝心の本人の声が届いて来ない。
「もしもーし、繋がってる?」
呼びかけても返事はない。電波の状態を変えようとした俺は、携帯を耳に押し当てたまま椅子から立ち上がった。カーテン越しの朝日もなく、ダイニングが暗闇に包まれていることを訝り、今はいったい何時なのだろうと思う。電気を付けようと踏み出した足が何か硬い物を踏んづけて、痛みに飛び上がった。その拍子に壁際へ這わせた手が明かりのスイッチを見つけた。記憶と違う場所にあるスイッチを手探りで入れると、頭上にオレンジ色の柔らかい光が灯った。その瞬間、俺ははっとする。
照らし出されたダイニングとキッチン、冷蔵庫は使い慣れた実家の物ではなかった。テーブルの色も、カーテンの模様も違った。冷蔵庫に貼られた拙い絵と、大人用の椅子の隣にちょこんと並べられた木製の高い子供椅子を見て、俺はようやくここが実家ではないことを悟る。自分が学生ではないことも。
足元に落ちたレゴブロックの破片を拾い上げてテーブルに置き、途端に早鐘のように打ち始めた心臓をなだめながらもう一度受話器へ呼びかける。
「もしもし、聞こえてる?」
「……あれっ? もしかして陽介? ……ああ、聞こえてるよ。ごめん、掛けておいて本当に悪いんだけど、仕事先に掛けようとして、番号を呼び出し間違ったみたいだ。そっちは真夜中だろ。変な時間に起こして悪かったな。また今度ゆっくり掛け直すよ」
じゃあまた、という短い挨拶を残して切れようとした電話に、俺は焦って食い下がった。
「あ、待て待て! お前、今どこにいる?」
「今? フロリダの飛行場だけど」
ふっと目の前が暗くなり、腕の裏が鳥肌だつ。俺は祈るように捧げ持った小さな通信機器に向かって、震えそうな声で尋ねた。
「なぁ、お前、今から、飛行機乗る?」
「うん、乗るよ」
「それ、乗るな。絶対乗るなよ。その飛行機、落ちるから」
月森はしばらく沈黙した後、電話の向こうで溜め息に似た笑いを漏らした。
「笑い事じゃなくて! なぁそれ、八人乗りの小型旅客機だろ。運転する奴の他に、乗客はお前だけだ」
「そう」
今度は軽く息をのむ気配があった。あいつが電話口ではっきりわかるぐらい驚いているということは、ビンゴだったということだろう。改めて背筋を冷や汗がつたう。
「なんで知ってるんだ?」
「なんででもいいから、帰って来たら話すから、とにかくそれだけはキャンセルしろ。仕事すっぽかしても、なんの約束があっても乗るな、頼むから」
こうと決めたら意外と頑固な月森が折れなかったらどうしようと思い、ほとんど泣き言状態になっている俺を哀れんだのか、何かヤバそうな雰囲気を察したのかどっちかは知らないが、しまいにあいつは「わかったよ、乗らない」と、言った。
電話を切った俺は、糸が切れたように椅子へへたりこんだ。とりあえず危機を脱したという安堵と意味不明の事態に対する混乱で、喉の奥から変な笑いが出てきた。なんなんだよ、と思う。これは一体なんなんだ。何が起こっているんだ。
喉が渇いていることに気づいて冷蔵庫から麦茶のボトルを出してきた俺は、台所の水切りかごからグラスを取って麦茶を注ぐ。麦茶を飲み干すと氷をざらざら入れて、棚で封を切られずに眠っていたウィスキーを注いだ。
どうも釈然としなかった。だって俺は忘れたふりをしてたけど本当は未練たらたらで、結局最後まで何もわからなかったことを恨みにも思ってて、仕舞っていたそういう引き出しを今さら全部引っ張り出されて逆さまに開けられたら、微妙な気分にもなるだろう。
でもそういうものが俺にあんな光景を見せ、あいつをしてこのタイミングで俺に電話を掛けさせてきたのだとしたら、それはあながちそう悪くもないものだったんじゃないかと思う。というか、思いたい。一抹の希望のようなものだと思いたい。実際には違ったとしてもだ。そう思ったほうが、都合がいいじゃないか。
時計を見上げると0時を十五分回っていた。俺はふとテレビのほうへ首を巡らせてみる。つるりとした液晶は知らん顔で沈黙を守っている。空になったグラスを流しへ置き、静かなテレビへ近づいて指先で触れた。軽く埃をかぶった液晶は、いくらさわってみても指が沈んだりするわけではなかった。
そうしているうちにようやく緩やかな眠気がやってきた。しばらくダイニングに陣取って向かいの席を睨んでいた俺は、ついに諦めてその場を後にする。廊下から続く階段を上った先には屋上ではなく、妻と娘が眠る寝室があるのだ。それをなんだか不思議に思う。
足音をたてないように一段ずつ階段を上る途中、なんとなく背後を振り返った。上って来た階段の下には誰もいない。子供だったのよ、という里中の声が不意によみがえる。
階段を上りきった俺は、ベッドに入って目を閉じる。夜半になってから強まった雨の音がふたつの寝息の中に低く響いている。せっかく眠たくなったはずなのに、真夜中の雨音が耳について眠れない。
眠りを逃したまま、俺は明日の天気について考えていた。晴れか雨か、天気に左右されていた頃のこと、自分が昔持っていたささやかな力について。夕方に聞いた予報のナレーションを頭の中に呼び戻して、そんなことをいつまでも真剣に考えていた。