愛について
早朝確認した天気予報は野球部員にとって少しだけ良い方に外れ、昼過ぎから雲行きが怪しくなったものの放課後まで何とか持ち堪えてくれた。それでも徐々に風は強まり、予定の時間まで練習したら冬の嵐になっちゃうね、と短めのメニューに変更したモモカンの判断は正しく、二時間後にはポツポツと雨が降り出してしまう。
「残念だけど、今日はこれで終わり! みんな風邪を引かないように気を付けて帰るんだよ!」
おつかれっした! と声を揃えて挨拶してから一目散に部室へと戻る途中、後ろから薄い肩を掴むと薄茶色の頭が勢い良く振り返った。
「おわっ! っと阿部かー。ビックリしたー」
「今日電車で帰ろうぜ」
「あー……。自転車置いて行くと明日の朝が困るんだよなー」
「うちの親に一緒に送って行って貰えばいいだろ」
「いやー、それも悪いし」
「近いんだから気にすんなよ」
そう? じゃあお願いしようかな、と眉を下げて小さく笑んで、それからあっ! と何か思いついたように叫んだ栄口が一転して声を潜める。
「じゃあさ、帰りちょっと寄り道しようよ」
「どっか行きてーの?」
「阿部、誕生日だろ? だからお祝い」
あんまり金無いからファーストフードで良ければだけど、と照れ臭そうな申し出に心が躍った。
そっと手を繋いだり、溢れてしまった行き場の無い想いをそのままぶつけるように抱き締めた事もある。お互い言葉に出した事は無いけど、いつの間にかオレ達は二人でそういう日を過ごすような関係になっていた。
何となく人目を避けたくて、知り合いに遭遇しなさそうな少し遠くの駅で降りる。人混みの中、改札の目の前にあるそば屋のガラスに写るオレ達の姿はどこから見ても友人同士、どこにでもいる男子高校生二人だった。
運動部特有の大きなカバンが邪魔にならないよう、出来るだけ身を寄せながら歩いていると背後からその波を乱す速度で何かが近付いてくる。とっさに危機を感じて利き腕で栄口の頭を庇いながら自分の胸に押しつけたのとほぼ同時に、栄口の肩の先まで伸ばされた腕が空振り、反対側からはちょっと金貸してくれないかなー、と内容とは裏腹に穏やかな声が降ってきた。
まずいな。
ここで問題を起こせば部に迷惑が掛かる。相手は二人か? 栄口だけでも逃げられれば、駅員室に助けを呼びに行ってくれるだろう。その間だけでも、何とか一人で……」
「なーんてね」
「ハハハハハ! 驚かしすぎちゃったー?」
緊迫した空気が笑い飛ばされ、恐る恐る振り返るとそこには見知った顔が二つ。
「か……梶山さん……と梅原さん……」
勘弁してください……、と安堵の溜息を漏らして非難すると、謝意を全く感じさせない様子で背中を叩かれた。
「だいたいよー、お前らひでーよ」
「枯れるまで応援してたオレらの声を忘れちゃうんだもんなー」
いや、それは、と言葉を濁すオレの肩を組み、それにしても、と梶山さんが続ける。
「友達を先にやろうとするなんて、格好良いじゃん」
な? と悪戯っぽく笑いかけられた栄口はそこでようやく何が起きたのかを認識したようで、あの、そうですね、とか言いながらオレと一緒になって顔を赤らめていた。
『友達』という単語の、気恥ずかしさと後ろめたさに胸を鷲掴みにされる。
「そういや、こんな所で何してんのー?」
「あー、部活が早めに終わったんで、プラプラしようかと」
「雪降るみたいだから、さっさと帰った方がいいぞ」
「お二人こそ、家この辺なんですか?」
「いや? オレ達はこれからおべんきょー」
「こう見えても受験生ですから」
茶化してはいるが、目の下は薄っすらと青黒く変色している。応援団として活躍していた頃よりやつれたようにも見え、その大変さが伺えた。
「地元で進学するんですか?」
「そうなるといいな」
「まあでも、どっちにしろ家は出るつもりなんだけど」
「え? 何の為に?」
「やっぱ、自由が欲しいじゃん」
「身近に浜田がいるからさー、見てると憧れちゃうんだよな」
部内に先輩がいないオレ達にとって身近で貴重な情報源である二人の、まるでそれを糧に受験勉強に取り組んでいるかのような楽しげな応酬を目の当たりにしてオレは横目で栄口を盗み見る。
オレは自由よりも安定が欲しいと言ったら、栄口は頷いてくれるだろうか。
帰る場所を作りたいと言ったら、笑ってくれるだろうか。
「じゃあそろそろオレら行くわ」
「呼び止めて悪かったなー」
「あ、いえ、こちらこそ」
「頑張ってください」
おー、と同じタイミングで片手を挙げて去って行く上級生の後姿に深々と頭を下げる。その間も、オレの思考は別の所へ飛んでいた。
一番安いセットを注文すると、遠慮しないでガッツリ頼めばいいのに、と栄口が膨れる。そういう自分が手にしているトレーには二百円分の食べ物が申し訳程度に乗っているだけ。お互い経済状況なんて似た様なものだから負担を掛けさせたくないという気持ちも確かにあったが、今それを正直に告げればその頬はますます大きくなるに違いなかった。かと言って、嘘も吐きたくない。
「さすがに今日はオレの好きなものが出てくると思うから」
「あ、晩飯? そっか、それじゃ無理強い出来ないな」
背に腹は変えられないとあまり口にしたくなかった事情を説明すると、うちは今日二日目のシチューなんだ、とそれ以上余計な事を突っ込まれずに流された。こういう時の栄口は距離の測り方が抜群に上手くて、それが居心地の良さの所以だとはわかっているけどオレに対してだけ特別では無い事が虚しくもなる。
そんな気持ちなど微塵もわかっていない栄口は、ガサガサとポークバーガーの包みを開けながら溜息を吐いた。
「来年の今頃はオレ達もあんな感じなのかなー。予備校行って、時々模試受けて……。うわー、考えるだけで頭痛くなってきた……」
「腹じゃねーんだ」
「いい加減そのネタしつこい」
お前、一年にまで話しただろ! と田島、水谷と並んで親しみやすいらしい栄口『先輩』は、お調子者の後輩にまでからかわれたのを思い出したらしく、その元凶であるオレを睨み付ける。
「知らせておいた方が、控えがすぐアップできるだろ」
「今まで一度だって試合中に抜けた事あったかよ」
「何かあってからじゃおせーんだよ」
はいはい、阿部は用意周到だね、と吐き捨てると、栄口は律儀にうまそう、と呟いてから片手で掴んだ茶色の薄っぺらい物体に齧り付いた。
その一連の動作を見ていたら急に腹が減ってくる。食べ物を目の前にするまで気付かないぐらい明らかに今日のオレは浮かれていたけど、そんな態度を出せるはずもなくてオレは無言で誕生日プレゼントを腹に納める。
プラスチックのマドラーでコーンスープを掻き混ぜていると、阿部は言葉が足りない、と栄口から窘められた部活中の出来事が急に頭の中を過ぎた。
「サンキュ。うまかった」
「どういたしまして。あ、おめでとうって言ってなかったな」
あっという間に食べ尽くし、ごちそうさまと手を合わせてから礼を述べたら照れ臭そうに笑われる。途端に流れ出したくすぐったい空気を変えたかったのか、そういえば、と栄口が話題を戻した。
「阿部は大学行っても野球続けんの?」
「そのつもり」
「へー。やっぱ六大学?」
「残念だけど、今日はこれで終わり! みんな風邪を引かないように気を付けて帰るんだよ!」
おつかれっした! と声を揃えて挨拶してから一目散に部室へと戻る途中、後ろから薄い肩を掴むと薄茶色の頭が勢い良く振り返った。
「おわっ! っと阿部かー。ビックリしたー」
「今日電車で帰ろうぜ」
「あー……。自転車置いて行くと明日の朝が困るんだよなー」
「うちの親に一緒に送って行って貰えばいいだろ」
「いやー、それも悪いし」
「近いんだから気にすんなよ」
そう? じゃあお願いしようかな、と眉を下げて小さく笑んで、それからあっ! と何か思いついたように叫んだ栄口が一転して声を潜める。
「じゃあさ、帰りちょっと寄り道しようよ」
「どっか行きてーの?」
「阿部、誕生日だろ? だからお祝い」
あんまり金無いからファーストフードで良ければだけど、と照れ臭そうな申し出に心が躍った。
そっと手を繋いだり、溢れてしまった行き場の無い想いをそのままぶつけるように抱き締めた事もある。お互い言葉に出した事は無いけど、いつの間にかオレ達は二人でそういう日を過ごすような関係になっていた。
何となく人目を避けたくて、知り合いに遭遇しなさそうな少し遠くの駅で降りる。人混みの中、改札の目の前にあるそば屋のガラスに写るオレ達の姿はどこから見ても友人同士、どこにでもいる男子高校生二人だった。
運動部特有の大きなカバンが邪魔にならないよう、出来るだけ身を寄せながら歩いていると背後からその波を乱す速度で何かが近付いてくる。とっさに危機を感じて利き腕で栄口の頭を庇いながら自分の胸に押しつけたのとほぼ同時に、栄口の肩の先まで伸ばされた腕が空振り、反対側からはちょっと金貸してくれないかなー、と内容とは裏腹に穏やかな声が降ってきた。
まずいな。
ここで問題を起こせば部に迷惑が掛かる。相手は二人か? 栄口だけでも逃げられれば、駅員室に助けを呼びに行ってくれるだろう。その間だけでも、何とか一人で……」
「なーんてね」
「ハハハハハ! 驚かしすぎちゃったー?」
緊迫した空気が笑い飛ばされ、恐る恐る振り返るとそこには見知った顔が二つ。
「か……梶山さん……と梅原さん……」
勘弁してください……、と安堵の溜息を漏らして非難すると、謝意を全く感じさせない様子で背中を叩かれた。
「だいたいよー、お前らひでーよ」
「枯れるまで応援してたオレらの声を忘れちゃうんだもんなー」
いや、それは、と言葉を濁すオレの肩を組み、それにしても、と梶山さんが続ける。
「友達を先にやろうとするなんて、格好良いじゃん」
な? と悪戯っぽく笑いかけられた栄口はそこでようやく何が起きたのかを認識したようで、あの、そうですね、とか言いながらオレと一緒になって顔を赤らめていた。
『友達』という単語の、気恥ずかしさと後ろめたさに胸を鷲掴みにされる。
「そういや、こんな所で何してんのー?」
「あー、部活が早めに終わったんで、プラプラしようかと」
「雪降るみたいだから、さっさと帰った方がいいぞ」
「お二人こそ、家この辺なんですか?」
「いや? オレ達はこれからおべんきょー」
「こう見えても受験生ですから」
茶化してはいるが、目の下は薄っすらと青黒く変色している。応援団として活躍していた頃よりやつれたようにも見え、その大変さが伺えた。
「地元で進学するんですか?」
「そうなるといいな」
「まあでも、どっちにしろ家は出るつもりなんだけど」
「え? 何の為に?」
「やっぱ、自由が欲しいじゃん」
「身近に浜田がいるからさー、見てると憧れちゃうんだよな」
部内に先輩がいないオレ達にとって身近で貴重な情報源である二人の、まるでそれを糧に受験勉強に取り組んでいるかのような楽しげな応酬を目の当たりにしてオレは横目で栄口を盗み見る。
オレは自由よりも安定が欲しいと言ったら、栄口は頷いてくれるだろうか。
帰る場所を作りたいと言ったら、笑ってくれるだろうか。
「じゃあそろそろオレら行くわ」
「呼び止めて悪かったなー」
「あ、いえ、こちらこそ」
「頑張ってください」
おー、と同じタイミングで片手を挙げて去って行く上級生の後姿に深々と頭を下げる。その間も、オレの思考は別の所へ飛んでいた。
一番安いセットを注文すると、遠慮しないでガッツリ頼めばいいのに、と栄口が膨れる。そういう自分が手にしているトレーには二百円分の食べ物が申し訳程度に乗っているだけ。お互い経済状況なんて似た様なものだから負担を掛けさせたくないという気持ちも確かにあったが、今それを正直に告げればその頬はますます大きくなるに違いなかった。かと言って、嘘も吐きたくない。
「さすがに今日はオレの好きなものが出てくると思うから」
「あ、晩飯? そっか、それじゃ無理強い出来ないな」
背に腹は変えられないとあまり口にしたくなかった事情を説明すると、うちは今日二日目のシチューなんだ、とそれ以上余計な事を突っ込まれずに流された。こういう時の栄口は距離の測り方が抜群に上手くて、それが居心地の良さの所以だとはわかっているけどオレに対してだけ特別では無い事が虚しくもなる。
そんな気持ちなど微塵もわかっていない栄口は、ガサガサとポークバーガーの包みを開けながら溜息を吐いた。
「来年の今頃はオレ達もあんな感じなのかなー。予備校行って、時々模試受けて……。うわー、考えるだけで頭痛くなってきた……」
「腹じゃねーんだ」
「いい加減そのネタしつこい」
お前、一年にまで話しただろ! と田島、水谷と並んで親しみやすいらしい栄口『先輩』は、お調子者の後輩にまでからかわれたのを思い出したらしく、その元凶であるオレを睨み付ける。
「知らせておいた方が、控えがすぐアップできるだろ」
「今まで一度だって試合中に抜けた事あったかよ」
「何かあってからじゃおせーんだよ」
はいはい、阿部は用意周到だね、と吐き捨てると、栄口は律儀にうまそう、と呟いてから片手で掴んだ茶色の薄っぺらい物体に齧り付いた。
その一連の動作を見ていたら急に腹が減ってくる。食べ物を目の前にするまで気付かないぐらい明らかに今日のオレは浮かれていたけど、そんな態度を出せるはずもなくてオレは無言で誕生日プレゼントを腹に納める。
プラスチックのマドラーでコーンスープを掻き混ぜていると、阿部は言葉が足りない、と栄口から窘められた部活中の出来事が急に頭の中を過ぎた。
「サンキュ。うまかった」
「どういたしまして。あ、おめでとうって言ってなかったな」
あっという間に食べ尽くし、ごちそうさまと手を合わせてから礼を述べたら照れ臭そうに笑われる。途端に流れ出したくすぐったい空気を変えたかったのか、そういえば、と栄口が話題を戻した。
「阿部は大学行っても野球続けんの?」
「そのつもり」
「へー。やっぱ六大学?」