Time to say goodbye
同時に、オレ達の前に立ちはだかろうとしている物理的な距離ならこの歪な関係を簡単に壊してしまえるという事も何となくわかる。
それでも行くななんてとても言えなかった。阿部の人生に口を挟む権利なんて、オレにも、他の誰にだって無い。
声を掛けた途端終わりへ向かって一歩踏み出す事になる気がして、オレはその場で立ち竦んでいた。かと言って逃げたところで結果が好転する訳でも無く、むしろ悪い方へと急発進するに違いない。
頬の内側の肉を強く噛み締めながら葛藤しているオレの目の前で、阿部が手にした雑誌のページを捲る。特に贔屓でもないプロ野球選手の特集に目を通しているのは、他ならぬオレを待っているからだ。それが急に申し訳なく思えて何かアクションを起こさなくてはと焦っていると、すっかり白黒になってしまった阿部が視線の先で動き出した。手にしていた雑誌を置いて腕時計に目を移したと思ったら、急に斜め後ろに立つオレを振り返る。
「あ……」
「……何してんだよ」
「あ……いや、遅くなって悪かったなーって……反省?」
「はあ!? だったらさっさと声掛けろよ!」
相変わらずの大声に、店内にいた他の客の視線が一気にオレ達へと向けられた。気まずそうな表情でさっさと行くぞ、と歩き出した阿部はペットボトルのお茶二本を購入し、オレはただ後ろに付いてその様子を眺める。再び外へ出れば、涼しい店内で立ち尽くしている間に冷え切ったはずの体に再び汗が浮き出し不快指数は一気に上昇した。
自分の車の後ろで立ち止まった阿部が、買ったばかりの飲み物を一本差し出してきた。それに礼を述べてから、その場でキャップを捻った阿部に倣って同じように口を付けると、ここまでで良いから、と告げられる。
「え?」
「見送りはいらねーって」
別に約束はしていなかったけど、新潟からフェリーに乗ると聞いてオレも港まで一緒に行くつもりだった事に、阿部は気が付いていたらしい。その上で、その必要は無いと先手を打たれてしまえば返す言葉に詰まってしまう。夜になっても気温は一向に下がる気配が無いのに、オレ達の間にだけ、ひんやりとした空気が流れた気がした。
いつだって真っ直ぐ視線を向けてくれていたのに、今日に限って俯いたまま顔を上げようとしてくれない事がオレの不安を余計に煽る。あまり見た事の無い阿部の態度が何を意味するのか図りかねて黙っていると、わりい、と更にオレを困惑させるような台詞を吐かれた。
「……オレはそれを、どう取ればいいんだよ」
これ以上考えても埒が明かないと判断して思った事をそのまま口にすれば、少し間を置いてからどうだろうな、と自嘲気味に阿部が笑う。
「新潟までは無理でも、どっか途中のサービスエリアぐらいまでドライブがてら来てくれっかな、と思ってたんだよ。さっきまでは」
「……高速乗ればそこまで時間も掛からないみたいだから、フェリーに乗るまで一緒にいるつもりだったよ。オレは」
一泊分の簡単な着替えも車に積んであったけど、一人浮かれて何を期待しているんだと思われたらと考えただけで恥ずかしくて、それを告げる気にはなれなかった。
そんな今日何度目かの空回りをしたオレに対し、阿部は予想に反して少し驚いたような顔を見せ、それから今度は目を見て謝罪の言葉を口にする。
「だから、さっきから何で謝られてるのかわかんなくて困ってるんだけど」
「……見送りはいらないって言っておきながら出発もしねーで未練がましくお前を引き留めようとしてたのと、今のは、思っていたよりオレの事考えてくれてたんだなってなんつーか……見縊っていて悪かった」
急に生え際の辺りに汗を掻き始め、いつもは偉そうな物言いをしている阿部が気まずそうにボソボソと言い訳をしている様に甘く胸が疼いた。同性同士でこういう表現をしても良いものか未だに迷うけど、阿部と付き合いだしてもう随分経ったというのに、まだこういう感情を抱けるのならオレ達は大丈夫なんじゃないかと、さっきまで悩んでいたのが嘘みたいに前向きになった自分の現金さに思わず笑みが浮かぶ。
「お前が言えって言ったからこっちは恥ずかしいの我慢して正直に曝け出したっつーのに、笑うか?」
「ごめん、何か気が抜けちゃって」
ムッとして突っかかってくる阿部を宥めるのはお手の物。そうして夏の湿った夜空を見上げて一つ息を吸い込んでから、阿部に会えなくなるの、嫌だなー! とストレートに叫んでみたら、胸に痞えていた物が大分取れてきた気がする。
「そんな遠い所、行くなー!」
「おい!」
休憩中なのか、きれいに並んで止まったトラックの窓から何の騒ぎかと運転手が次々に顔を出してこちらの様子を伺っている。それに気付いて慌てた阿部がオレの口を塞ごうと腕を伸ばしてきたが、それをするりとかわして走って距離を取り、最後にもう一度、大声を張り上げた。
「早く帰って来いよー!」
「栄口!」
わかったからもう黙れ! と怒鳴る阿部の声の方がよっぽど大きくて、それをからかうように指摘したらあっと言う間に捕まって首に腕をがっちり回される。そのまま引き摺られ、痛い! ってか暑苦しい! と抗議しながら、最近また筋肉落ちた気がする、と自分の体型を棚に上げて汗で滑る阿部の二の腕の太さを確認していると、歩む振動に紛れて目尻に柔らかい感触が振ってきた気がした。
限界まで上目を使っても首筋しか見えないが、そこがだいぶ赤く染まっているのにさっきの行為が故意であった事を知る。
「阿部」
「なんだよ」
「港に着いたら、何かうまいもん食べようよ」
「そんな時間に開いてる店なんてないんじゃねーの」
端から見ればこの猛暑の中、バカみたいにじゃれ合う仲の良いサラリーマン同士に見えるんだろうか。それならそれで別に構わない、と目の前に作られた握り拳に唇をぶつけてみたら、オレを拘束する体に緊張が走り、それからもう一度、今度は汗ばむこめかみに口付けられた。
作品名:Time to say goodbye 作家名:ちょこ冷凍