月曜二十三時の攻防
「もしもし泉? どうしたの?」
『マジヤバい』
「え、何? どうしたの? 大丈夫?」
『ちょーアツいんだけど』
「あ……」
『エースがさ』
「わあああああああああダメダメダメダメ言わないでええええええ!」
泉と電話で話すようになったのは夏大前。いつも通り帰りに寄ったコンビニで立ち読みしていた泉に声を掛けたのがきっかけだった。
「あれ? 泉、ジャンプ読むんだー」
「あー。いつもは兄貴が買ってくるんだけど、なんかしばらく帰って来ないらしいから目ぼしい所だけ立ち読みで済まそうと思って」
「それぐらい買えばいいのに」
「この一冊で二、三日分の食費になるんだぜ」
そう笑って、再び泉は手にした雑誌に目を落とす。他の奴らが外で腹ごしらえをしていても、泉は一人店内に残っていた。
一心不乱に漫画を読み耽っている様子が気になって、食事もそこそこにガラス越しに見つめる。俯いている泉の目に野球部員にしては少し長めのストレートの髪が掛かっていて、時折鬱陶しそうに掻き上げる姿が妙に色っぽかった。
……色っぽい?
男相手にそんな事を思った自分に驚いて、しかもタイミング悪く泉が急に顔を上げるから思わず目を逸らしてしまう。
あ、今のちょっと感じ悪かったかも、と慌てていると、店から出てきた泉が真っ直ぐオレの所へ向かってきた。
「あ……、ごめん泉そういうつもりじゃなくて」
「腹減ったー。一口くれ」
返事をする前に、泉はオレの手の中のパンに齧り付いた。
「ちょっ……! 一口って言ったじゃん!」
小さい顔に似合わぬ大きな口に収まり、半分以下になった食料を見せながら何とか言ってやってよ、すやまぁ! と隣の巣山に泣きつくと、苦笑いでかわされる。背後でモハモハという声が聞こえて振り向くと、リスのように頬袋を膨らませた泉が満足そうな顔をしていた。
「何?」
「もはもはひへふほまへははふひ」
「何言ってるかわかんないよ! 口の中に物が入ってる時に喋っちゃいけないって教わらなかった!?」
食べ物の恨みは恐ろしい。
うっかり口調がキツくなってしまい、周りにいた他の部員もどーした、水谷がそんな言い方するなんて珍しいね、と寄ってきたが、当の泉は悪びれた様子もなく、もごもごと口を動かしている。
「泉にパンほとんど食われた……」
恨みがましい口調で呟くと、何だそんな事かよ、と呆れた声が上がる。
「そんな事って! オレの貴重な栄養源なのに!」
「もたもたしてるお前が悪い」
ようやく飲み込めたらしい泉はそう吐き捨てると、喉乾いたーと今度は水分を求めて西広の元へ向かった。それを合図に、そろそろ帰るか、と集まっていた連中がノロノロ動き出す。
じゃあな、と自転車に跨った西浦高校野球部の隊列が二手に分かれた所で、泉が再びオレの元へ寄ってきた。
「水谷」
「んー?」
「お前、ONE PIECE読んでたよな」
「うん。全巻持ってるよー」
「パンのお礼に、今週号までの展開教えてやるよ」
「やめてよ! 単行本読むまで楽しみにしてるんだから!」
ルフィがな、とオレの訴えを無視して続けようとする泉から逃げるように距離を取る。もう大丈夫だろうと後ろを振り返ると、泉は腹を抱えて笑っていた。
家に帰り、とりあえず風呂、とバスルームに向かおうとした所でお姉ちゃんが使ってるし、片付かないから先にご飯食べちゃって、と母親に声を掛けられる。悲しい事にオレはこの家におけるヒエラルキーの最下層にいた。文句なんか言った日にはどうなるかわからないから、従うしかない。
食事が終わっても長湯の姉が風呂から出てくる気配は無く、全てを済ませて部屋に戻った時には日付が変わるまで一時間を切っていた。急激に眠気に襲われてベッドにダイブし、就寝前の最後の力を振り絞って枕元の携帯を確認すると不在着信の表示。
「誰だよ、こんな時間に……」
半分閉じ掛けた目でディスプレイを確認し、慌てて起き上がった。
泉だ。
すぐに掛け直そうと発信ボタンに指を置いた所で思い留まる。数時間後には会えるんだし、だいたいもう寝ちゃってるかもしれない。
明日にしよう、と携帯を元の場所に戻して今度はゆっくり体を横にした。冴えてしまった目を閉じて無理矢理寝ようとしても、さっきの伏し目がちな泉が脳裏に浮かぶ。オレとは正反対の、流れるような黒髪に触れてみたいと思ってしまったらもうどうしようもなかった。このまま何もしないでは眠れそうになくて、逡巡してからメールなら起こさないかもしれない、と自分勝手な結論に辿り着く。
ごめん! 風呂入ってた! 何かあった? と短い文章を目一杯飾り付けてから送信すると、すぐに返信が来た。緊張と興奮でボタンを操作する指が覚束無くなり、焦って余計に時間が掛かる。
今から電話しても良い? つーか、デコメうぜー!
ようやく開けた、泉らしいシンプルで乱暴なテキストメールが嬉しくて、気が付けばオレは自分から電話を掛けていた。
あの日以来、泉は毎週月曜日に連絡をしてくる。単行本に未収録の部分を話そうとするのをオレが慌てて止めると満足気に笑い、じゃあな、と電話を切った。
人間は、贅沢で貪欲な生き物だ。
最初は泉の声が聞けるだけで満足だったのに、数回目にはもっと話していたいと思うようになった。
人間は、考えて努力もする生き物だ。
ある日、泉の終話の合図に被せるかのようにオレは慌てておやすみ、と言ってみた。いつものやり取りに変化をもたらしたかったからだ。結果は大成功。やや間を置いてから、泉はおやすみ、と照れくさそうに返してくれた。
携帯を放り投げて、耳に響いている泉の声を何度も反芻する。
その日、オレは初めて泉でヌいた。
一年目の夏が終わり、早々に入った合宿生活から戻っても夏休みはまだ半分残っている。
海だプールだ花火だと浮かれている奴らを横目にひたすら練習に打ち込んだ。遊びに行きてーなと練習の合間に話が出てはいたが、いざ休日になれば遠出する気にもなれずに結局家でダラダラと過ごす。
そんな日の夕方、一歩ぐらいは外に出るかと近所のコンビニまでプラプラと歩いて行った。冷凍ケースを覗いてアイスのラインナップを確認し、雑誌コーナーでファッション誌の立ち読み。今度買い物に行ったらこういうの買おう、と思いながらラックに戻すと、足下に並んだ分厚い本に目が行った。散々読み尽くされたのか、売り物にしては随分痛んでいる。
そうか、お盆だから合併号なのか。
普段単行本しか買わないオレにもそれぐらいの知識はあった。間違って同じ号を買っちゃった、と中学の友達が悔しがっていた姿を思い出して笑ってしまう。
それからふと、胸がざわついた。
今日は月曜日。泉から電話は掛かってくるだろうか。
家に帰ると、夕食の前にオレは風呂を済ませた。入浴中に帰ってきた姉が、すぐ入りたかったのに! 一番風呂なんてフミキのくせに生意気! と浴室のドアの前で喚いていたが、そんなもの後で謝り倒しておけば良い。いつ泉から着信があっても良いように、さっさと部屋に籠もってしまいたかった。
『マジヤバい』
「え、何? どうしたの? 大丈夫?」
『ちょーアツいんだけど』
「あ……」
『エースがさ』
「わあああああああああダメダメダメダメ言わないでええええええ!」
泉と電話で話すようになったのは夏大前。いつも通り帰りに寄ったコンビニで立ち読みしていた泉に声を掛けたのがきっかけだった。
「あれ? 泉、ジャンプ読むんだー」
「あー。いつもは兄貴が買ってくるんだけど、なんかしばらく帰って来ないらしいから目ぼしい所だけ立ち読みで済まそうと思って」
「それぐらい買えばいいのに」
「この一冊で二、三日分の食費になるんだぜ」
そう笑って、再び泉は手にした雑誌に目を落とす。他の奴らが外で腹ごしらえをしていても、泉は一人店内に残っていた。
一心不乱に漫画を読み耽っている様子が気になって、食事もそこそこにガラス越しに見つめる。俯いている泉の目に野球部員にしては少し長めのストレートの髪が掛かっていて、時折鬱陶しそうに掻き上げる姿が妙に色っぽかった。
……色っぽい?
男相手にそんな事を思った自分に驚いて、しかもタイミング悪く泉が急に顔を上げるから思わず目を逸らしてしまう。
あ、今のちょっと感じ悪かったかも、と慌てていると、店から出てきた泉が真っ直ぐオレの所へ向かってきた。
「あ……、ごめん泉そういうつもりじゃなくて」
「腹減ったー。一口くれ」
返事をする前に、泉はオレの手の中のパンに齧り付いた。
「ちょっ……! 一口って言ったじゃん!」
小さい顔に似合わぬ大きな口に収まり、半分以下になった食料を見せながら何とか言ってやってよ、すやまぁ! と隣の巣山に泣きつくと、苦笑いでかわされる。背後でモハモハという声が聞こえて振り向くと、リスのように頬袋を膨らませた泉が満足そうな顔をしていた。
「何?」
「もはもはひへふほまへははふひ」
「何言ってるかわかんないよ! 口の中に物が入ってる時に喋っちゃいけないって教わらなかった!?」
食べ物の恨みは恐ろしい。
うっかり口調がキツくなってしまい、周りにいた他の部員もどーした、水谷がそんな言い方するなんて珍しいね、と寄ってきたが、当の泉は悪びれた様子もなく、もごもごと口を動かしている。
「泉にパンほとんど食われた……」
恨みがましい口調で呟くと、何だそんな事かよ、と呆れた声が上がる。
「そんな事って! オレの貴重な栄養源なのに!」
「もたもたしてるお前が悪い」
ようやく飲み込めたらしい泉はそう吐き捨てると、喉乾いたーと今度は水分を求めて西広の元へ向かった。それを合図に、そろそろ帰るか、と集まっていた連中がノロノロ動き出す。
じゃあな、と自転車に跨った西浦高校野球部の隊列が二手に分かれた所で、泉が再びオレの元へ寄ってきた。
「水谷」
「んー?」
「お前、ONE PIECE読んでたよな」
「うん。全巻持ってるよー」
「パンのお礼に、今週号までの展開教えてやるよ」
「やめてよ! 単行本読むまで楽しみにしてるんだから!」
ルフィがな、とオレの訴えを無視して続けようとする泉から逃げるように距離を取る。もう大丈夫だろうと後ろを振り返ると、泉は腹を抱えて笑っていた。
家に帰り、とりあえず風呂、とバスルームに向かおうとした所でお姉ちゃんが使ってるし、片付かないから先にご飯食べちゃって、と母親に声を掛けられる。悲しい事にオレはこの家におけるヒエラルキーの最下層にいた。文句なんか言った日にはどうなるかわからないから、従うしかない。
食事が終わっても長湯の姉が風呂から出てくる気配は無く、全てを済ませて部屋に戻った時には日付が変わるまで一時間を切っていた。急激に眠気に襲われてベッドにダイブし、就寝前の最後の力を振り絞って枕元の携帯を確認すると不在着信の表示。
「誰だよ、こんな時間に……」
半分閉じ掛けた目でディスプレイを確認し、慌てて起き上がった。
泉だ。
すぐに掛け直そうと発信ボタンに指を置いた所で思い留まる。数時間後には会えるんだし、だいたいもう寝ちゃってるかもしれない。
明日にしよう、と携帯を元の場所に戻して今度はゆっくり体を横にした。冴えてしまった目を閉じて無理矢理寝ようとしても、さっきの伏し目がちな泉が脳裏に浮かぶ。オレとは正反対の、流れるような黒髪に触れてみたいと思ってしまったらもうどうしようもなかった。このまま何もしないでは眠れそうになくて、逡巡してからメールなら起こさないかもしれない、と自分勝手な結論に辿り着く。
ごめん! 風呂入ってた! 何かあった? と短い文章を目一杯飾り付けてから送信すると、すぐに返信が来た。緊張と興奮でボタンを操作する指が覚束無くなり、焦って余計に時間が掛かる。
今から電話しても良い? つーか、デコメうぜー!
ようやく開けた、泉らしいシンプルで乱暴なテキストメールが嬉しくて、気が付けばオレは自分から電話を掛けていた。
あの日以来、泉は毎週月曜日に連絡をしてくる。単行本に未収録の部分を話そうとするのをオレが慌てて止めると満足気に笑い、じゃあな、と電話を切った。
人間は、贅沢で貪欲な生き物だ。
最初は泉の声が聞けるだけで満足だったのに、数回目にはもっと話していたいと思うようになった。
人間は、考えて努力もする生き物だ。
ある日、泉の終話の合図に被せるかのようにオレは慌てておやすみ、と言ってみた。いつものやり取りに変化をもたらしたかったからだ。結果は大成功。やや間を置いてから、泉はおやすみ、と照れくさそうに返してくれた。
携帯を放り投げて、耳に響いている泉の声を何度も反芻する。
その日、オレは初めて泉でヌいた。
一年目の夏が終わり、早々に入った合宿生活から戻っても夏休みはまだ半分残っている。
海だプールだ花火だと浮かれている奴らを横目にひたすら練習に打ち込んだ。遊びに行きてーなと練習の合間に話が出てはいたが、いざ休日になれば遠出する気にもなれずに結局家でダラダラと過ごす。
そんな日の夕方、一歩ぐらいは外に出るかと近所のコンビニまでプラプラと歩いて行った。冷凍ケースを覗いてアイスのラインナップを確認し、雑誌コーナーでファッション誌の立ち読み。今度買い物に行ったらこういうの買おう、と思いながらラックに戻すと、足下に並んだ分厚い本に目が行った。散々読み尽くされたのか、売り物にしては随分痛んでいる。
そうか、お盆だから合併号なのか。
普段単行本しか買わないオレにもそれぐらいの知識はあった。間違って同じ号を買っちゃった、と中学の友達が悔しがっていた姿を思い出して笑ってしまう。
それからふと、胸がざわついた。
今日は月曜日。泉から電話は掛かってくるだろうか。
家に帰ると、夕食の前にオレは風呂を済ませた。入浴中に帰ってきた姉が、すぐ入りたかったのに! 一番風呂なんてフミキのくせに生意気! と浴室のドアの前で喚いていたが、そんなもの後で謝り倒しておけば良い。いつ泉から着信があっても良いように、さっさと部屋に籠もってしまいたかった。