臆病者の恋
美しい光景だ、そう思う。
絶対的庇護者とその護るべき者を象徴したかのような光景。
羨ましいとは感じない。
僕は所詮男だから護ってほしいという願望はなくて、どちらかといえば、非力で脆弱で平凡だけれども、隣に立ちたいというのが、僕の想いだ。
そう想ってるくせに、どろどろとした感情を抱え、独りこうして眺めるしかない自分に吐き気がする。
いっそこの感情ごと消えてしまいたくても、そんな勇気すら持てない僕には今の現状はきっと似合いなのだろう。
(君が静ちゃんを選ぶとは思わなかったよ)
ふと脳裏に、皮肉げにけれどどこか愉快気に嗤いながら告げた情報屋の言葉が蘇る。あの時、どういう意味ですかと問う帝人に対し、情報屋はそのままの意味だよと返した。
ひとつ、予言してあげようか。情報屋はそう言って、帝人の頬に触れ、鮮やかな紅の眸を三日月のように細めた。
(きっと君はあの化け物を選んだことを後悔するよ)
その時に頼るのが俺だと嬉しいなぁとそう付け加えて、
「お暇ですか?」
声を掛けられ、はっと意識が戻る。慌てて声の方を向けば、最近知り合ったばかりの男が口元に薄く笑みを敷いてこちらを見下ろしていた。
「それともお疲れですか?」
「い、いえ!ちょっとぼうっとしてただけです・・・すみません、挨拶もしないで」
「こちらこそ、うちのお嬢が世話になってます」
言われ、視線を前へと戻す。
平和島静雄の傍に、惜しげもない信頼を載せた笑みを広げ、抱きつく小さな少女。帝人はその2人をただ眺めていただけだ。
何もせず。
何もできず。
「僕は特に何もしてないです。それに茜ちゃんは静雄さんに会いにきてますから」
僕は関係ないですよ。
苦笑すれば、男は僅かに芝居がかったふうに首を傾げてみせた。
「・・・まあ、そういうことにしておきましょうか」
「?」
見上げる帝人に大人はやはり笑って、なら私にちょっと付き合ってくれませんかと二つの缶珈琲を掲げてみせた。断る理由も無かったので、帝人はゆっくりと頷いた。
「何を考えていたんですか?」
「え、」
人ひとり分のスペースを空けて、ベンチに2人並んで座る。傍から見たらどんな関係に見えるだろうかと片隅で思いながら、問われた意味を考えた。
「えっと、・・・さっきですか?」
「ええ」
「・・・いえ、特に何も」
特別でも何でもない、どうってことのないことだ。帝人の悩みや想いなどは。
くだらなすぎて、自分でさえ嗤うしかないことを、わざわざ他人に伝える意味も無いし、趣味も無い。
「何も、という顔には見えませんでしたけどねぇ」
男の言葉に帝人は顔を上げれば、前を向いたまま、眸だけが帝人を見つめていた。
「――平和島の旦那はああ見えて、実直すぎる青年でしょう」
突然の言葉に、けれど帝人は頷く。
「・・・静雄さんはとても優しいひとです」
だから茜もあんなに懐くのだろう。あの力抜きで、・・・いや、そうでなくても、静雄はきっと誰からも愛される人間だ。強くて、優しくて、誰に対してもヒーローになれる、そんな人だと帝人は思っている。そう、誰に対しても。
「でもまあ、我々としては少々眩しすぎますがね」
「え、」
「竜ヶ峰君もそう思うでしょう?」
喉が異様に乾く。
中身のまだ残る珈琲の缶をぎゅっと握った。
「ぼく、は」
本当はずっとずっと考えていた。
彼に相応しい自分でありたいのに、なれない自分がいることを。
本当の自分は、もっと、汚くて、愚かで、ろくでもない人間で、彼が想うような自分ではけしてなくて。
今だってそんな劣等感に押し潰されそうで。
彼には僕なんかよりも、もっと相応しいひとが、いるんじゃないかって。
「竜ヶ峰君」
薄く笑う口元が視界に入った。
このひと、ずっと笑ってると帝人が思った時、開いていた距離がまるで存在していなかったかのように一瞬にして縮められ、気がつけば、男の顔が帝人の視界を支配していた。男がうっそりと告げた。
「なんなら、攫ってあげましょうか」
どこへ、と問うよりも先に、頬を滑った指先から仄かに香る煙草の匂いに、違うと、そう感じた。
「竜ヶ峰!」
視界がぐるりと回り、引き寄せられた力に思わず喉が鳴った。何事かと周囲を見渡せば、呆気に取られたような少女と、笑いを堪えるように口元に手をやる男の姿が見えて、帝人はぱちりと瞬きをする。
「あんた、こいつに何してたんだ」
低く唸る声に、やっと自分は静雄に抱えられているのだと気付き、帝人は思わず身を捩るが、静雄の腕はそれを拒絶した。
「し、静雄さん、落ち着いてくださいっ、僕は、ただ」
「ただ話をしていただけですよ、平和島の旦那」
くつりと男が言えば、静雄の眉間に深く皺が寄った。それに比例するように力が強くなり、顔を歪めた帝人を見た男はやれやれと肩を竦める。
「旦那、あんたの力で彼を壊さないでくださいよ」
「っ、」
「・・・静雄さん」
「・・・・わりぃ、竜ヶ峰」
ふわりと解けた拘束。しかし、静雄はすぐに帝人の肩に手をやり、そのまま自らの胸へと引き寄せた。
「こいつにあまり話しかけないでくれませんか。こいつは俺らと違って、普通の奴っすから」
「・・・普通ですか」
男は静雄を見て、そして帝人を見た。鋭い眸に、けれど逸らすこともせず帝人もまた彼を見つめる。男は満足そうに笑った。
「そういうことにしておきましょうか」
その眸の奥に、愉悦と嘲笑と、そして僅かな不憫が混じっているのを、静雄は本能で、帝人は意識的に感じ取った。問いだたそうと静雄が一歩踏み出すが、幼い声で遮られる。
「帝人お兄ちゃんいじめちゃだめだよ、四木のおじちゃん」
茜が帝人のズボンをぎゅっと握り、男――四木に告げた。
「言ったじゃないですか。話をしていただけですよ」
「本当?」
確認は四木ではなく帝人に向けられ、帝人は慌てて頷いた。
「本当だよ。四木さんとはお話してただけだよ」
「でも、帝人お兄ちゃんちょっと顔色わるいから、」
いじめられたかと思ったの。と小さな顔を心配の色いっぱいにして気遣わしげに言う少女に、帝人は申し訳なさと情けなさを感じながら、少女と目線を合わせるために膝を折った。
「心配させてごめんね。でもありがとう、茜ちゃん」
微笑めば、茜も擽ったそうに笑ってくれたので、そっと安堵のため息を吐く。
「やれやれ、完全に悪者になってしまいましたね」
「すみません、四木さん」
「いえ、貴方のせいではないですよ。しかし、今日はこのへんでお暇しましょうか」
「静雄お兄ちゃん遊んでくれてありがとう!帝人お兄ちゃんもまたね!」
「うん、またね」
「・・・おう」
茜と四木が去っても、静雄は帝人を抱き寄せたまま動かない。
どうしたらいいのかわからず、帝人は静雄の顔を見上げるしかなかった。
「竜ヶ峰」
「・・・はい」
サングラスの下で、真っ直ぐな眸が帝人を射ぬく。
嘘の無い、真実だけを映そうとする、綺麗な眸。
(我々には少々眩しすぎますがね)
その通りだと帝人は想った。
きっとあの人も、『我々』の中に帝人を含めて言ったのだろう。
その眸に、醜い自分が映しだされる日がくることを、帝人はいつも怯えているのだ。
それがけして遠くない未来だと、知っているから。