可惜シ華
萎えた足では身体を支えることもかなわず、勢いのまま床に倒れ込んだ大谷は、体勢を整える前に首根を片手で掴まれ、仰向けに抑え込まれた。獣が爪で獲物を捕えるように同輩を床へと縫いとめた三成は、大谷を上から見据えて唸る。
「裏切らぬと言え、刑部」
裏切りを成した男の居室で、三成は首を掴んだ手に力を込めながら言った。大谷はさすがに苦しさを覚えながら、先にも言うたであろ、と切れ切れに返す。
「太閤に、彼奴の、首を―――」
その大谷の言葉に、三成は顕著な反応を示した。ひくりと腕が震え、顔が引き攣って歪む。圧し掛かられ、首を絞められながらも、大谷はその様子を見てとって驚いた。
覇王が地に墜ちた瞬間から、幾度も三成自身が口にした言葉だというのに。
傷ついたのだと、今も血を流しているのだと、はっきりと告げるその顔が、誰を思い浮かべたかなど明白だ。わずかばかり腕の力を緩めながら、ゆっくりと顔を伏せた三成は、覆いかぶさるようにして大谷の耳元へ口を寄せる。
そうして大谷は、視界の端に淡い色の髪が揺れるのを見ながら、その言葉を聞いた。
「私を、裏切るな」
豊臣を裏切るな、秀吉様を裏切るな。
そう言い続けた男が、言い換えたその言葉に大谷は悟った。
そうか。
この男は、意識はしていまいが。
太閤に対する裏切りにもまして、己自身を裏切られたことにこうまで傷つけられたのか。
大谷は、かつての三成に「私」のないことを知っていた。己に対する周囲の反応など、それが恐れであろうと憎しみであろうと何ひとつ構わずに。己の両手には一切何も持たずに、ただ一心にあの覇王と軍師の後を追っていた男だ。
その三成が、緩やかな変化と共にいつのまにか抱えていた自己。
それを植え付けて芽吹かせたはずの男は、最後にそれを徹底的に裏切って去って行ったのだ。
「我は、此処に」
大谷は、ひそりとした声音で答えた。それは大谷自身が自覚している以上に柔らかい音であった。己の首を絞めあげる男に対して向けるにはあまりに相応しくない、ゆっくりと背中を撫でてあやすような声だ。
三成の指が緩まる。それをさらに解きほぐすように、大谷は告げた。
「決してぬしを裏切りはせぬ」
大谷の首から三成の手が離れ、半身を起こした三成は大谷を見つめた。
その眼差しには静謐な色が宿っている。
「ならば、いい」
三成はそれだけを答えたが、その全身からあの不安定な揺らぎは去っていた。ほう、と今度こそ安堵の息を漏らした大谷は、全く放っておけぬ男よと心のうちで呟く。そして打って変わって微妙に気遣わしげな眼で大谷の首に視線を落とす三成に気付き、素直なことだと思わず笑った。
「……どうした、刑部」
唐突に笑みを零した大谷に対し、三成が怪訝な顔で問う。その己を呼ぶ声が、妙に優しい。三成の無意識の変化は歴然だった。
大谷は笑みを含んで答えないまま、ふと腕を伸ばした。
「近う寄れ。額をここに」
言えば、三成は素直に伸ばした指の先へと額を近づけた。一度信じればもはや何も疑うことのない男の様子に、もう一度わずかに笑みを漏らした大谷は、柔いままの声音で囁く。
「眠れ、今は」
大谷が言うと同時に指先が仄かな燐光を放つ。
それがふっとかき消えた途端、三成の身体は力を失い、大谷の上へと崩れ落ちた。落ちてきた身体を受け止めてやりながら、大谷は声にせず囁く。
――そうして明日からはいっそう鮮やかな憎悪の華を咲かせるが良い。
その様を思い描き、己の上に俯す男の銀糸の髪を戯れに弄りながら、大谷は包帯の下で笑みを噛み殺した。