愛より恋よりこの胸を締め付けるもの
白いバスルームの洗面器に頭を突っ込んだ。こんな風に嘔吐するのは久し振りだった。真っ白な穴のなかで俺は思い知っていた、自分はとても意志が弱い生き物だったということを。
安いラブホテルには、シャワーカーテンも付いていなかった。シャワーのノズルを捻ると洗面所一帯もびしょ濡れになる。俺は構わずに必死に自分の身体をごしごしと洗って、昨晩起こった思い返したくもない一連のできごとを、記憶と体内から消し去ろうとしていた。そして度々気が遠くなるのに気付くとたわごとのように口にしていたのは「ごめんなさい」という言葉だった。なにがごめんなさい? 他の男と寝たこと? 贖罪するにも足らない関係のくせに思いあがっている自分が恥ずかしくて? いつもはサングラスの奥に隠れている静雄の穏やかな瞳に? そこまで頭のなかでぐるぐるとしてから思考は停止したように、俺はシャワーに打たれたままうなだれた。小さく笑っているのは自分の声だ。その声色はバスルームにこだまし、曇っている。
嫌だなあ、これだから嫌いなんだよ、池袋って街はさ。混沌としていて、ちっとも俺に優しくないんだ。道を歩いたって、誰ひとり俺に振り向かないのさ。皆知らん顔で、自分のことしか考えちゃいない。
身支度を整えてからチェック・アウトすると、俺は部屋のサイドテーブルに置いてあった一万円札を、ロビーのゴミ箱にそのまま捨てた。カチッと頭のなかで右クリックの音がする。ゴミ箱のなかを消去しますか? カーソルは迷うことなくイエスを押す。
ロビーを通り抜けると、ガラス窓に赤く腫れた目が映った。フードを深く被った俺の姿はまるでネズミ男だった。
「おはようございます」
背後からもじもじと声を掛けてきたのは、俺のスウィートハニー、眼鏡に巨乳が今日も眩しい園原杏里だ。
「おっはよ――う、杏里! 今日もエロ可愛いな、いや、今日は一段とエロ可愛い? 初夏の太陽の光が俺に幻を見せているのか――っ?」
「紀田くん」
杏里は俺のぺらぺら出てくる台詞をその一言で黙らせて、その細い指で自分の目元をすっと指した。
「どした? 杏里」
「目が…赤いです」
「ははっ、バレたー? 夜更かしし過ぎちゃってさ。深夜番組が面白いんだ、水曜日はこれまた」
「…今日は、金曜日」
俺は冷静な杏里の声に、全てがどうでもよくなった。俺の表情の機微を見透かしたかのように、彼女は一瞬悲しそうな目をしてから、少し気まずそうに俺の前から姿を消した。
『そうかぁ、今日は金曜日かー、いっけね。と、言うことはだ、明日は休みだな。休みと言えばデートだ、杏里! 俺とデートしよう!』
彼女から見える「俺」の模範解答はざっとそんなところだろう。俺は自らそれを演じることを辞めたのだ。今猛烈になにもかもが面倒だから。じゃあなぜ学校なんかに来たのかって? なにもなかった振りをしたかったからさ。なにもない日常を演じれば、俺のささやかな昨晩のあやまちはきっとなかったことにできる。しかしそれは最早無理なことだった。これ以上、紀田正臣を演じるのは懲り懲りだった。罪悪感は全てを気だるく憂鬱にさせる。そもそも罪悪感なんてものを覚える必要はあっただろうか? 俺とあの人はそこまでの関係だったろうか? 否、答えなどどこにも落ちていない。それでも俺はなん度もなん度も繰り返し問う。俺とあの人の関係を簡潔に述べよ。しかし、解答欄はいつだって空欄のままだ。
静雄と知り合う前の俺はクズだった。見ず知らずの誰とでも寝て、援助交際まがいのことをしていたのだ。その行為に、罪悪感など正直ひとつもなかった。静雄と出会って、今のように静雄のアパートに入り浸るようになってから、俺はそういったやんちゃはしなくなった。それはとても自然なことだった。そんな火遊びをせずとも、俺の心は満たされたからだ。言い方を変えれば、俺はすっかり安心して、静雄に依存していた。静雄の確かな気持ちすら知らないのに。
静雄への感情は、今まで俺があまり抱いたことのないものだった。恋なんて軽いものでも、愛なんて重いものでもなく、それでも恋愛感情の類であるのは間違っていないのだろうが、言葉にしようとするとぎこちなくて、気恥ずかしかった。あたたかくて柔らかで、誰かと枕を並べて寝ることがこんなに幸福なんだと、俺は驚いたのだ。
今回のことに、きっかけとか理由とか、そんなもんは特になかった。強いて言えば、穏やかすぎたんだろう。あの人との時間は俺にとってあまりにも穏やかすぎて、それで――こういうのを魔がさしたっていうのかな? また、俺は馬鹿なことを、悪癖のように繰り返してしまったのだ。
仮にそれを実行したとして、俺を責める人は今ひとりもいなかった。だから後ろめたく思う必要なんざ、どこにだってないんだよ。俺がネズミ男になろうと、杏里に嫌われようと、帝人をなんとなく避けてしまおうと、どうだっていいんだ。だけど風邪を引いたみたいに身体がだるく重い。世界はどんよりと暗い。誰とも言葉を交わしたくない。こういう感じをなんて言うんだっけ、そう、後悔だ。俺は少なからず後悔してる、自分のしたことを。
「しずおさん」
声にならない声を出して、俺は机に突っ伏した。
ああ、どうか、俺を責めてくれないかなあ。それだけの感情を俺に持っていてくれないかなあ。俺と同じぶんだけ、俺のことを思っていてよ。不安にさせないでよ。俺に優しくするのは嘘なんかじゃないって、わからせてよ。ねえ、俺のこと、どう思ってる?
数学の教師の声だけが教室のなかを流暢に踊っていた。俺は誰にも悟られぬようひっそりと涙を流した。実はもう限界なんだということに、俺はその涙の味で気付いたのだった。
優しくされてもう限界だなんてわがままな話だ。そんな女がいたら、どんな美人だろうとこっちから願いさげだね。男は優しくてなんぼだろ。それと少しの甘さを見せれば、大抵の女はコロッと転んじまう。静雄はそんな俺なんかの計算された優しさなんか、ひとつだって持っていなかった。不器用なまなざしでこちらを見る彼の瞳が、俺はとても好きだ。でも時として残酷なのはその優しさ故だった。突き放さず、拒まず、許容する。本当は誰でもよかった? 俺以外の誰かでも、同じように優しくした?
答えが欲しいんだ。俺は空欄の解答欄を埋めてくれる答えを求めて迷走してる、ただの格好悪いガキだ。
安いラブホテルには、シャワーカーテンも付いていなかった。シャワーのノズルを捻ると洗面所一帯もびしょ濡れになる。俺は構わずに必死に自分の身体をごしごしと洗って、昨晩起こった思い返したくもない一連のできごとを、記憶と体内から消し去ろうとしていた。そして度々気が遠くなるのに気付くとたわごとのように口にしていたのは「ごめんなさい」という言葉だった。なにがごめんなさい? 他の男と寝たこと? 贖罪するにも足らない関係のくせに思いあがっている自分が恥ずかしくて? いつもはサングラスの奥に隠れている静雄の穏やかな瞳に? そこまで頭のなかでぐるぐるとしてから思考は停止したように、俺はシャワーに打たれたままうなだれた。小さく笑っているのは自分の声だ。その声色はバスルームにこだまし、曇っている。
嫌だなあ、これだから嫌いなんだよ、池袋って街はさ。混沌としていて、ちっとも俺に優しくないんだ。道を歩いたって、誰ひとり俺に振り向かないのさ。皆知らん顔で、自分のことしか考えちゃいない。
身支度を整えてからチェック・アウトすると、俺は部屋のサイドテーブルに置いてあった一万円札を、ロビーのゴミ箱にそのまま捨てた。カチッと頭のなかで右クリックの音がする。ゴミ箱のなかを消去しますか? カーソルは迷うことなくイエスを押す。
ロビーを通り抜けると、ガラス窓に赤く腫れた目が映った。フードを深く被った俺の姿はまるでネズミ男だった。
「おはようございます」
背後からもじもじと声を掛けてきたのは、俺のスウィートハニー、眼鏡に巨乳が今日も眩しい園原杏里だ。
「おっはよ――う、杏里! 今日もエロ可愛いな、いや、今日は一段とエロ可愛い? 初夏の太陽の光が俺に幻を見せているのか――っ?」
「紀田くん」
杏里は俺のぺらぺら出てくる台詞をその一言で黙らせて、その細い指で自分の目元をすっと指した。
「どした? 杏里」
「目が…赤いです」
「ははっ、バレたー? 夜更かしし過ぎちゃってさ。深夜番組が面白いんだ、水曜日はこれまた」
「…今日は、金曜日」
俺は冷静な杏里の声に、全てがどうでもよくなった。俺の表情の機微を見透かしたかのように、彼女は一瞬悲しそうな目をしてから、少し気まずそうに俺の前から姿を消した。
『そうかぁ、今日は金曜日かー、いっけね。と、言うことはだ、明日は休みだな。休みと言えばデートだ、杏里! 俺とデートしよう!』
彼女から見える「俺」の模範解答はざっとそんなところだろう。俺は自らそれを演じることを辞めたのだ。今猛烈になにもかもが面倒だから。じゃあなぜ学校なんかに来たのかって? なにもなかった振りをしたかったからさ。なにもない日常を演じれば、俺のささやかな昨晩のあやまちはきっとなかったことにできる。しかしそれは最早無理なことだった。これ以上、紀田正臣を演じるのは懲り懲りだった。罪悪感は全てを気だるく憂鬱にさせる。そもそも罪悪感なんてものを覚える必要はあっただろうか? 俺とあの人はそこまでの関係だったろうか? 否、答えなどどこにも落ちていない。それでも俺はなん度もなん度も繰り返し問う。俺とあの人の関係を簡潔に述べよ。しかし、解答欄はいつだって空欄のままだ。
静雄と知り合う前の俺はクズだった。見ず知らずの誰とでも寝て、援助交際まがいのことをしていたのだ。その行為に、罪悪感など正直ひとつもなかった。静雄と出会って、今のように静雄のアパートに入り浸るようになってから、俺はそういったやんちゃはしなくなった。それはとても自然なことだった。そんな火遊びをせずとも、俺の心は満たされたからだ。言い方を変えれば、俺はすっかり安心して、静雄に依存していた。静雄の確かな気持ちすら知らないのに。
静雄への感情は、今まで俺があまり抱いたことのないものだった。恋なんて軽いものでも、愛なんて重いものでもなく、それでも恋愛感情の類であるのは間違っていないのだろうが、言葉にしようとするとぎこちなくて、気恥ずかしかった。あたたかくて柔らかで、誰かと枕を並べて寝ることがこんなに幸福なんだと、俺は驚いたのだ。
今回のことに、きっかけとか理由とか、そんなもんは特になかった。強いて言えば、穏やかすぎたんだろう。あの人との時間は俺にとってあまりにも穏やかすぎて、それで――こういうのを魔がさしたっていうのかな? また、俺は馬鹿なことを、悪癖のように繰り返してしまったのだ。
仮にそれを実行したとして、俺を責める人は今ひとりもいなかった。だから後ろめたく思う必要なんざ、どこにだってないんだよ。俺がネズミ男になろうと、杏里に嫌われようと、帝人をなんとなく避けてしまおうと、どうだっていいんだ。だけど風邪を引いたみたいに身体がだるく重い。世界はどんよりと暗い。誰とも言葉を交わしたくない。こういう感じをなんて言うんだっけ、そう、後悔だ。俺は少なからず後悔してる、自分のしたことを。
「しずおさん」
声にならない声を出して、俺は机に突っ伏した。
ああ、どうか、俺を責めてくれないかなあ。それだけの感情を俺に持っていてくれないかなあ。俺と同じぶんだけ、俺のことを思っていてよ。不安にさせないでよ。俺に優しくするのは嘘なんかじゃないって、わからせてよ。ねえ、俺のこと、どう思ってる?
数学の教師の声だけが教室のなかを流暢に踊っていた。俺は誰にも悟られぬようひっそりと涙を流した。実はもう限界なんだということに、俺はその涙の味で気付いたのだった。
優しくされてもう限界だなんてわがままな話だ。そんな女がいたら、どんな美人だろうとこっちから願いさげだね。男は優しくてなんぼだろ。それと少しの甘さを見せれば、大抵の女はコロッと転んじまう。静雄はそんな俺なんかの計算された優しさなんか、ひとつだって持っていなかった。不器用なまなざしでこちらを見る彼の瞳が、俺はとても好きだ。でも時として残酷なのはその優しさ故だった。突き放さず、拒まず、許容する。本当は誰でもよかった? 俺以外の誰かでも、同じように優しくした?
答えが欲しいんだ。俺は空欄の解答欄を埋めてくれる答えを求めて迷走してる、ただの格好悪いガキだ。
作品名:愛より恋よりこの胸を締め付けるもの 作家名:ボンタン