灰色の海の底から
自分に
影が
落ちる
見上げると、鯨が上を遊泳していた。尾を翻して、先を急ぐ。
「………」
仲間のところに戻るのだろうか。
帰れる場所があるのだろうか。
帰りを待つ、友がいるのだろうか。
差し込む光が眩しい。その先を見届けたくなくて、目を背けた。
重力に身を任せると、自分の重みで、ゆっくりと身体は下に沈んでいった。
微かな反響音。静寂な深海には、遠くまでよく響く。
その、ダレかが生きている音すら、今の自分には受け入れがたかった。
「……」
小さく息を吸う。その代わりに、滑るように空気が逃げていった。
生きている。まだ、自分は生きている。
“もっと深く”
船体が軋む音。自分の心が軋む音。
“もっと、深く…”
何も視えないところまで。
何も感じないところまで。
彼の所まで。
静寂が濃くなる。やがて音が消えた。
水深120メートル。安全深度はとっくに超えていた。青から灰に変わる世界。それは、彼を形容する色だ。
手を伸ばした。冷えた指先は、ただ宙を彷徨った。触れられない。感じられない。そこは色だけで、他には何もないのだ。
ここを越えたら、共に往けるだろうか。
また、笑って隣を歩けるだろうか。
あの日の、思い出と同じように。
指先が冷たい。身体が重い。うまく息ができない。
爪先にこびりついた赤が、いつの間にか色を失っていた。
もう、色覚がないのだ。
構わない。もう、鮮やかな世界なんて見たくない。
自嘲して、目を閉じた。
腕を撫でていく海流、水泡。
そのまま沈んで往けると思っていたのに。
「伊八」
声が、聞こえた気がした。
聞けるはずもない。けれど、聞きたかった。間違えるはずもない声が。
「伊八」
記憶の中のままで、自分の名を呼ぶのだ。
左腕に体温。捕まれて、落下が止まる感覚。
枯れたはずの涙が零れそうで、思わず閉じたままの目に力を入れた。あんまりだ、幻聴すら優しい。
そうか。いつの間にか、自分は壁を越えていたらしい。
捕まれた腕が痛かった。
暖かかった。
生きていた時も、死んだ後でも、何一つ彼は変わらないらしい。
「伊八。…聞いてるですか?」
少し拗ねたような声。
聞いてる。
会いたかった。
他には何もいらなかった。
意を決して振り向くと、彼は記憶の中のままの笑顔を向けてくれた。
灰色の世界では、彼のその色は、一層鮮やかに見えた。
「U房…」
言葉を漏らすと、何ですか?と問い返された。
頬を指でなぞると、くすぐったいですよ。と笑われた。
触れて、伝わる感覚に。また泣きそうになった。
影が覆いかぶさって、抱き締められたのだと分かった。
水泡が自分と彼の間を通り抜けていく。見上げた光は、鈍い。
指は相変わらず冷たいし。思い出したかのように、身体が軋み始めた。
人の言うあの世は、もっと明るくて華やかな場所だと聞いていたのに。
その風景は、さっきとまるで変わらない、灰色の海の底だった。
****
艦長が、冗談めかしてあの世の話をしたことがあった。
自虐的な話は、薄暗い艦内に似合って、よく船員の笑いを誘った。
あの世など、自分達にはないことも。
それは死に往くヒトが定めた、無への希望だということも。
意味のないことだということも。
聞きながら、冷静に境界を引いている自分がいた。
兵器の自分に死生感なんて。そんな感情はないと思っていた。
それでも、いざそれが自分に降り掛かれば。海の底に答えを求めた。全てを投げ捨てて、彼に助けを求めた。まるで後追い自殺でもする、ヒトのように。
人の姿をして。
兵器として生まれ。
人の感情を持って。
兵器として任務を全うする。
じゃあ、自分はどうやって死ねばいいのだろうか。
自分は。
一体どこまでが兵器で、どこまでがヒトなのだろうか。
****
その男は、いつもと変わらぬ笑顔で自分の元に戻ってきた。
攻撃を受けて、沈没したと聞いた。激昂したその後の自分は、酷い有様だったと思う。
錆びた甲板に、真っ赤な花があちらこちらに散っていた。
助けを求める声も、許しを乞う声も、全てが腹立たしかった。
彼が死んだのだ。お前たちのせいで。
誰でもいいから、誰でもいいから。誰でもいいから。
あの時の自分には、それしか頭になかった。
まだ。手のひらには、断末魔の感覚が残っていた。
「………」
指を見て、赤が霞んでいたのに安心した。
こんな自分は、彼には見せたくなかった。
「伊八」
後ろから声をかけられて、心臓が跳ねた。
頭に手拭いがかけられる。
「濡れたままだと、カゼ引くですよ?」
そのままガシガシと髪を掻き混ぜられた。
その感覚は、間違いなく現実にある感覚だった。
灰色の海から引き上げられて、そのまま風呂に入れられた。
指先が完全に冷えていたから、熱がひどく身体に染みた。湯の熱が心臓まで伝わった後。ようやく現実感を伴った彼の存在が。その熱が、声が。
引き裂かれた心に、濁流のように駆け巡った。
戻って、きた。
生きて…、いた。
また、一緒に生きていける。
U房を追い出してから、一人で泣いた。
「U房…、」
「何ですか?…あ。もしかして、力強すぎましたか?」
そう言って離れそうになった腕を、反射的に掴んだ。
見上げたら、少し驚いた顔をされた。
灰色の瞳。灰色の髪。安全深度を越えた、静かで深い海の色。彼の色。
待ち望んだ色。
「もう、勝手にどっか、行くな…よ」
口を開いたら、目を合わせられなくて。最後の方は、ほとんど聞き取れないような声だった。
「…Ja…。伊八、心配かけて、ごめんなさい…」
その声は、今までのどんな言葉より。深く胸に落ちた。
目を合わせて、対話して。ようやく繋がった気がした。
もし、これが夢だとしても。
もし、ここが死後の世界だとしても。
救われない、甘い毒だとしても。
それでもいい。覚めなければいい。
このまま死ぬまで、騙されていられればいい。
影が
落ちる
見上げると、鯨が上を遊泳していた。尾を翻して、先を急ぐ。
「………」
仲間のところに戻るのだろうか。
帰れる場所があるのだろうか。
帰りを待つ、友がいるのだろうか。
差し込む光が眩しい。その先を見届けたくなくて、目を背けた。
重力に身を任せると、自分の重みで、ゆっくりと身体は下に沈んでいった。
微かな反響音。静寂な深海には、遠くまでよく響く。
その、ダレかが生きている音すら、今の自分には受け入れがたかった。
「……」
小さく息を吸う。その代わりに、滑るように空気が逃げていった。
生きている。まだ、自分は生きている。
“もっと深く”
船体が軋む音。自分の心が軋む音。
“もっと、深く…”
何も視えないところまで。
何も感じないところまで。
彼の所まで。
静寂が濃くなる。やがて音が消えた。
水深120メートル。安全深度はとっくに超えていた。青から灰に変わる世界。それは、彼を形容する色だ。
手を伸ばした。冷えた指先は、ただ宙を彷徨った。触れられない。感じられない。そこは色だけで、他には何もないのだ。
ここを越えたら、共に往けるだろうか。
また、笑って隣を歩けるだろうか。
あの日の、思い出と同じように。
指先が冷たい。身体が重い。うまく息ができない。
爪先にこびりついた赤が、いつの間にか色を失っていた。
もう、色覚がないのだ。
構わない。もう、鮮やかな世界なんて見たくない。
自嘲して、目を閉じた。
腕を撫でていく海流、水泡。
そのまま沈んで往けると思っていたのに。
「伊八」
声が、聞こえた気がした。
聞けるはずもない。けれど、聞きたかった。間違えるはずもない声が。
「伊八」
記憶の中のままで、自分の名を呼ぶのだ。
左腕に体温。捕まれて、落下が止まる感覚。
枯れたはずの涙が零れそうで、思わず閉じたままの目に力を入れた。あんまりだ、幻聴すら優しい。
そうか。いつの間にか、自分は壁を越えていたらしい。
捕まれた腕が痛かった。
暖かかった。
生きていた時も、死んだ後でも、何一つ彼は変わらないらしい。
「伊八。…聞いてるですか?」
少し拗ねたような声。
聞いてる。
会いたかった。
他には何もいらなかった。
意を決して振り向くと、彼は記憶の中のままの笑顔を向けてくれた。
灰色の世界では、彼のその色は、一層鮮やかに見えた。
「U房…」
言葉を漏らすと、何ですか?と問い返された。
頬を指でなぞると、くすぐったいですよ。と笑われた。
触れて、伝わる感覚に。また泣きそうになった。
影が覆いかぶさって、抱き締められたのだと分かった。
水泡が自分と彼の間を通り抜けていく。見上げた光は、鈍い。
指は相変わらず冷たいし。思い出したかのように、身体が軋み始めた。
人の言うあの世は、もっと明るくて華やかな場所だと聞いていたのに。
その風景は、さっきとまるで変わらない、灰色の海の底だった。
****
艦長が、冗談めかしてあの世の話をしたことがあった。
自虐的な話は、薄暗い艦内に似合って、よく船員の笑いを誘った。
あの世など、自分達にはないことも。
それは死に往くヒトが定めた、無への希望だということも。
意味のないことだということも。
聞きながら、冷静に境界を引いている自分がいた。
兵器の自分に死生感なんて。そんな感情はないと思っていた。
それでも、いざそれが自分に降り掛かれば。海の底に答えを求めた。全てを投げ捨てて、彼に助けを求めた。まるで後追い自殺でもする、ヒトのように。
人の姿をして。
兵器として生まれ。
人の感情を持って。
兵器として任務を全うする。
じゃあ、自分はどうやって死ねばいいのだろうか。
自分は。
一体どこまでが兵器で、どこまでがヒトなのだろうか。
****
その男は、いつもと変わらぬ笑顔で自分の元に戻ってきた。
攻撃を受けて、沈没したと聞いた。激昂したその後の自分は、酷い有様だったと思う。
錆びた甲板に、真っ赤な花があちらこちらに散っていた。
助けを求める声も、許しを乞う声も、全てが腹立たしかった。
彼が死んだのだ。お前たちのせいで。
誰でもいいから、誰でもいいから。誰でもいいから。
あの時の自分には、それしか頭になかった。
まだ。手のひらには、断末魔の感覚が残っていた。
「………」
指を見て、赤が霞んでいたのに安心した。
こんな自分は、彼には見せたくなかった。
「伊八」
後ろから声をかけられて、心臓が跳ねた。
頭に手拭いがかけられる。
「濡れたままだと、カゼ引くですよ?」
そのままガシガシと髪を掻き混ぜられた。
その感覚は、間違いなく現実にある感覚だった。
灰色の海から引き上げられて、そのまま風呂に入れられた。
指先が完全に冷えていたから、熱がひどく身体に染みた。湯の熱が心臓まで伝わった後。ようやく現実感を伴った彼の存在が。その熱が、声が。
引き裂かれた心に、濁流のように駆け巡った。
戻って、きた。
生きて…、いた。
また、一緒に生きていける。
U房を追い出してから、一人で泣いた。
「U房…、」
「何ですか?…あ。もしかして、力強すぎましたか?」
そう言って離れそうになった腕を、反射的に掴んだ。
見上げたら、少し驚いた顔をされた。
灰色の瞳。灰色の髪。安全深度を越えた、静かで深い海の色。彼の色。
待ち望んだ色。
「もう、勝手にどっか、行くな…よ」
口を開いたら、目を合わせられなくて。最後の方は、ほとんど聞き取れないような声だった。
「…Ja…。伊八、心配かけて、ごめんなさい…」
その声は、今までのどんな言葉より。深く胸に落ちた。
目を合わせて、対話して。ようやく繋がった気がした。
もし、これが夢だとしても。
もし、ここが死後の世界だとしても。
救われない、甘い毒だとしても。
それでもいい。覚めなければいい。
このまま死ぬまで、騙されていられればいい。