灰色の海の底から
「変な顔してどうしたんですか?」
昼時の海軍官営食堂は騒がしい。
皆、他より食おうと必死なのだ。
その隅でぼんやりほうけていると、九七式艦上攻撃機にそう言われた。
何が変な顔だ。それが年上に物を言う態度か。
とりあえず肘鉄を食らわせてやると、油断していたらしく、小さく呻いた後うずくまった。どうやら鳩尾に入ったらしい。帝國海軍希望の星にしては、この航空機は警戒心がなさすぎる。
「まあ座れ、七」
自分の隣の椅子を示してやると、若干疑いの眼差しを向けながら隣に納まった。
赤点スレスレの及第点だ。
「、あ。さつき君」
伊八と同じ方向に身体を向けると、その先には銀盆を持って列に並ぶUボートがいた。
他より頭一つ二つ大きいから、すぐに分かる。
九七はUボートの行動をひとしきり眺めた後、何かに気付いたような顔をした。そして、伊八に向かって恐る恐る問い掛けた。
「…オレ、もしかしてお邪魔ですか?」
「そ。ジャマw」
ぴしゃりと一刀両断してやると、涙ながらに逃げようとしたので襟首を引っ掴んでやった。
二回目の呻き声は無視だ。
「聞けよ七。アイツ、沈没したって聞いたのに。あっさり戻って来やがって」
人の気も知らないで。
思い出したらムカついてきたので、とりあえず手近なものを締め上げることにした。
それは帝國海軍未来の星のような気もしたが、それはこの際忘れておこう。
「…い、はちさ…、苦し…!」
視線の先の灰色は、金剛に捕まったらしく。さっきからずっと話し込んでいた。
その横で、他の駆逐艦達が訝しげな視線を向けている。
当の本人は、気付いている様子もない。
疑念だけが、浮かんでは沈んだ。
感情とは理解し難いものだ。
心からの心配も、的が外れれば苛立ちに変わる。
どちらも嘘じゃない。
そして、その原因を突き止めるのは、正直戸惑った。
悪ふざけから解放してやると、九七は膝を折って咳き込んだ。
見上げた瞳には涙が滲んでいる。
「…せっかく戻ってきたのに。嬉しく…ないんですか…?」
「嬉しくねーわけねーだろwふざけんなw」
間髪入れずに、足元でうずくまっている九七を脚下にしてやった。
小さく悲鳴。第二波をお見舞いしてやろうと思ったら、すんでのところで逃げられた。惜しかった。ちょっと楽しくなってきたというのに。
怯えるような弱気な目線に、ため息をついた。
「嬉しいけどさ。…変じゃね?沈んだのに、戻ってくるなんて」
唯一無二の名を持つ艦は、沈めば決して帰らない。
誰に教わるでもない。初めから知っていた。
だから。
U房と連絡が取れなくなった時は、生きた心地がしなかった。攻撃を受けて沈んだと聞いた時は、目の前が暗くなった。そして、どうしようもない憤りをぶつけた。
獨逸側との協定など、人の建前にすぎない。自分にはそんなものどうでもよかった。
だだ、彼を奪った全てが憎かった。奪われた分だけ、奪い返してやりたかった。
けれど。何度軍刀を振るっても、いくつの命を踏み潰しても。
枯渇した心が潤うことはなかった。失った物が大きすぎた。思い返してみれば、自分には彼以外、大事なものは何一つなかったのだ。
得る前は気付かずにいられた。絶対の孤独。
独りで歩くには重すぎた。
だから、彼を取り戻すには、沈むしかないと思った。
「……戻ってきたら…変なんですか…?」
過去の記憶を彷徨っていると、小さく声が落とされた。意識が戻される。
九七が俯いている。目を合わせようとしたら逸らされた。表情が堅い。自分は、何かおかしいことを言っただろうか?
「伊八っ」
振り向くと、銀盆をふたつ抱えたUボートが立っていた。
盆が木の机に当たって、小さく音を立てた。
「スミマセン、話し込んでしまいました…!」
謝られた。丁寧に目の前に置かれたカレーライス。Uボートが左側に座る。記憶が被る。そういえば、昔もこんなことがあった気がする。
「あ、七…」
右に視線を向けた。
少しだけ様子が気になったのだが、すでに九七の姿はなかった。
まあいい。次に会った時に絞めてやる。
カレーライスをひとくち口に入れる。記憶と違う味がした。あの時のほうが、確かずっと美味かった。
匙で米粒をまさぐった。記憶を探る。
その味は、誰のものだっただろうか。
ふと入り口側を見やると、九七が俯いて立ち尽くしていた。
その左手は耳に当てられている。何か話しているようにも見える。
ああすることで、航空機同士通信ができるらしい。
昔誰かに聞いた。誰に聞いたんだろうか。
「………」
ああ、そうか。
鮮やかに記憶が合致する。
赤城だ。
「…なあ。U房」
見上げると、灰色の瞳が自分を捕らえていた。
「…今度は、赤城のメシ食いに来ようず」
戦況は変わった。
あの時が、多分一番楽しかった。
鉄の匙が、陶器当たって音を鳴らす。
Uボートは、肯定も否定もしなかった。ただ、困ったような顔をして。笑った。
それでいい。自分達に“今度”はないかもしれない。
やっぱ忘れろ。と付け足した。
口に入れたカレーライスは相変わらず記憶と異なっていた。
無言で口に運んだ。
昔が懐かしくなるなんて。
まるで人間みたいだと、自嘲した。