灰色の海の底から
U房が沈んだという、あの通信は誤報で。
沈んだのは別の艦か、もしかしたらそれは敵艦で。情報が錯綜していたか、敵を欺くための情報にこちらが欺かれたもので。
つまりU房は沈んでなどいなくて。生きていて。約束を果たすために自分のもとに帰ってきて。
だからここにいて。自分の傍にいて。今からも、ずっとこれからも。
自分の隣は、彼しかいない。
自分の問い掛けに、上司は何も言わなかった。
じっと見つめても、その背が振り返ることはなかった。肯定も否定もない。それは、どちらともとれないという意味であり。どちらと言える確証がないという意味であり。機密といえる意味だった。
いつの間にか、この部屋からは葉巻の匂いが消えた。
見つめた背中は、昔よりもずっと小さくなったように見えた。
沈黙に諦めて、部屋を出た。扉が閉まる音がやけに大きく聞こえて。ひどく違和感がした。
昔は引っきりなしに人が行き交っていたこの廊下は、今はしんと静まり返っていた。
戦況も、人も、この国に流れる気運も、昔とは大きく変わった。
海の底にいたから、気付かなかったもの。いや、気付かなかったのではない。本当は興味がなかったのだ。
自分の世界は、あまりにも狭かった。U房と見る世界が、自分の中のすべてだった。他のものは、その時さえ面白ければ、正直どうでもよかったのだ。
一歩踏み出す。床が軋んだ。
言葉が得られなくても、今ここにあるものだけが真実だ。
見上げた空は青かった。
海面から見上げた空より、ずっと高くて青かった。
打ち拉がれて過ごすうちに、夏が終わった。もうみっともなく泣くのは御免だ。
昔差し伸べた手。今度は差し伸べられた。その手を掴んだ。
差し伸べたのはU房、掴んだのは自分。それだけでいい。それ以上はいらない。
官舎を出ると、U房が待っていた。
心配そうな顔で駆け寄るから、「その顔マジウケるんだけどw」と軽口を叩いた。
少しだけ困ったように笑うその顔が、別人みたいで嫌だった。
そんなはずないのに。彼はU房だ。
「今日、U房飯当番な!」
久しぶりに、あの得体の知れない料理が食べたくなった。
手を取って前を歩いた。
突然の事に、U房が体勢を崩したらしい。後ろから文句が上がる。
それすら嬉しかった。
ほら、伝わる体温が心地いい。彼はここにいる。自分の隣に、今確かにいるじゃないか。
自分の見ているものが全て。
そう、都合のよいように解釈した。
ドイツに帰還するときに、約束をした。
別れ際、いつも強気な目が、確かに揺らいでいた。でもそれを指摘すると、意地っ張りな彼のことだ。すさまじい剣幕で怒るだろう。そんな彼も可愛いのだけど、次に会った時に、口を聞いてもらえなかったら困るのは自分だから。それは自分の胸だけに留めた。
こんな彼の顔を知っているのは、たぶん自分だけなのだ。そう思っていたら「U房、顔キモい」と言い放たれて、ちょっぴり泣けた。
「必ず帰ります」
どんな事があっても。どんな姿になっても。
「だから待っていてください」
私の隣は、貴方しかいない。
そう言ったら笑われた。
「オマエ芝居かかりすぎ」と。蹴られた脛が痛かった。けれど顔を伏せて照れを隠す、伊八の目にはきっと涙が浮かんでいるのだ。
見えないのをいいことに、額にキスをした。驚いて見上げた伊八は、やっぱり泣いていた。それが嬉しくて、文句を言われながら足早に出航した。
私の一番は、伊八だから。
見上げた空。日本で見る、最後の空。
次に帰れるのは、夏の前くらいだろう。それまでは、ドイツの空を見上げて彼のことを想おう。
伊八の一番も、私だったらいいのに。
返事が怖くて言えなかった。
でも、今度は勇気を出して言ってみようか。
知らず笑みが漏れていた。
本当に自分の世界は、彼を中心に回っているらしい。
次の再会を心待ちにしながら、深い海に身を沈めた。