純愛シンドローム
痛い、痛い、心が……痛い。
憧れたのは純粋な愛。
そんなものが手に入るわけは無いと、わかっているのに。その存在さえ、自分が本当に信じているかもわからない。
侑士は逃げるように、実家を後にした。テニス特待を受けた氷帝に、特別行きたかった訳ではない。
とにかく息をするのも苦しい現実から逃れたかった。ただ、それだけだ。
侑士の家族は大学病院の教授を務める心臓外科ではゴットハンドと称えられている父と、売れっ子教育評論家の母。
それに、遠くイギリスに留学している優秀な姉と一人息子の自分。
一見すると、幸せを絵で描いたような家族。それと現実の狭間の中で、まだ幼い侑士の心は悲鳴を上げていた。
実際はどうかと言えば。
ほとんど浮気相手の所へ行ったまま家に帰らなくなった父。
その父にイラつく母。そのイライラの矛先を向けられた侑士は堪ったものではない。
いや、まだ八つ当たりされるのならマシだったかもしれない。
突然泣き叫んだかと思うと、狂ったように叫ぶ。「侑士だけは母さんを見捨てたりしないわよね。
侑士は母さんの味方よね。いい、侑士、あなたは父さんみたいになっては駄目よ」
いい加減にしてくれ。
世間一般では教育者として名高い母が。
まだ中学にすら上がっていない息子に、投げかける言葉とは到底思えなかった。
侑士は出来の良い息子を演じ続けること以外に術は無かったのだ。
本当は自分をさらけ出して、甘えたい年頃だったのに。
見た目だけでも、もう少し子供らしかったら、周りの目も違ったのかもしれない。
侑士は背も高く、与える雰囲気も到底十二歳とは思えなかった。
切れ長の涼しい瞳に、思慮深そうな綺麗な顔。落ち着いた物腰。
侑士を取り巻く大人達も侑士を一人前の大人として扱っていた。
残念だが、漆黒の瞳の奥に湛えた悲しみを、誰一人気づかなかった。
不幸なことはそれだけでは無かった。
母が頼んだ家庭教師は、女を武器にするタイプの人間だった。やたらと身体に触れてくる。
隠微な笑みを浮かべ、男はみんな自分の前にひれ伏すものだと思っている。
「侑士君は頭いいから、教えること何も無いわね」
頭を撫ぜる手が気持ち悪い。その日。その手が肩に掛かり、ぎゅっと引き寄せられた。
「もっと他の勉強してみる?」
媚を売るような目で覗き込まれて、全身に鳥肌が立った。女って汚い。
この女も。母も。真剣にそう思えた。
女の腕を振り払おうとした時。その手を掴れた。
真っ赤に塗られたマニキュアが、目の奥を刺激する。自分の手が。女の胸に押し当てられる。
吃驚して手を退けようすると、今度は女の唇が自分のそれに押し付けられた。
だらしなく開いた唇の隙間から女の舌が入って来る。
そのざらついた感触が嫌で、顔を背けて逃れようとすると、女は一旦唇を外し、艶を含んだ声で囁いた。
「可愛いのね、怖がることないから。侑士君を気持ち良くさせてあげる」
女の手がズボンの上から侑士の未熟なモノを弄ぶように触れた。
これまで一度も味わったことの無いような感覚が侑士を襲い始めた。
怖い。
女の腕から逃れようとするのに。
身体が硬直して動けない。なにか言おうとするのに、口はパクパクするだけで、音にならない。
そのうち気持ちとは反対に、訳のわからない感覚が下半身を支配し始めた。嫌だ。嫌だ。怖い。怖い。
身体を床の上に押し倒されて、女の柔らかい身体が覆いかぶさって来た。執拗に繰り返される口付け。
「…あ……ぁん」
女の口から喘ぎ声が漏れ始めた。あられもない姿態。知性も教養の欠片も感じられない声に。
侑士は胸の中に空気をいっぱい吸い込むと、腕に渾身の力を込め、女の身体を押し戻した。
「いややぁー」
思いがけない侑士の反撃に、あっけなく女の身体は弾き飛んだ。その拍子に机の角で打ったのか。
額から一筋赤い糸がすーっと流れ落ちた。
「痛ぁい。何すんの!」
悲鳴に近い声で喚く女の方を振り返ることもしないで、家から飛び出した。
侑士が家に戻ったのは、夜もかなり更けて来てからであった。
でも家にはもっと悲惨な事態が待っていた。
『バシッ!』
帰って来て母親の顔を見た途端に左頬を叩かれた。
「侑士、何て言うことをしてくれたの。母さんの立場もわからないの!貴方も父さんと同じだなんて」
頭をハンマーで殴られたような気がした。
聡明な侑士には、何が起きたのかをすぐに理解できた。
あの女が保身のために、自分を悪役にしたのだ。
侑士から、母親に真実を告げられる前に、侑士が女に手を出そうとしたと。おそらくそう言ったのだ。
それを何の疑問も持たずに信じた母。
息子よりもあの女を信じた。情けなくて。
思わず悲しい笑みが零れた。
そんな侑士の頬を母親はもう一度叩いた。
部屋に戻って来た侑士の顔からは、全ての表情が消えていた。
頭の中は空っぽで何も考えられなかった。
この広い世界の中で、自分を愛してくれる者など誰もいないと思った。
きっと愛など、どこにも存在しないと。
誰かがが作り上げた幻影に過ぎないと侑士は思った。
「忍足侑士です。よろしう」
一人で東京にやって来た。簡単な引越しも全て一人で済ませた。
一人暮らしの新しい生活を、特別期待しているわけでもない。
でも、あの息苦しい空間の中から抜け出られたことだけは、忍足にとっては幸せだった。
テニス特待なので、当たり前だが部活はテニス。
それもここ氷帝の男子テニス部は全国区だ。
生半可なものでは無いと聞いている。おまけにアメリカナイズな実力主義なので、弱いものには容赦ないということだ。
試合に負ければ、即行レギュラー落ち。練習を強いられるわけではないのに。
練習をしない者がコートに立てるチャンスはない。
個人ごとの規定の練習を終えた者も誰一人、コートを後にする者はいなかった。
それが逆に忍足には都合が良かった。余計なことを考える時間が無い。
ただ黄色いボールを追ってコートの中を足がもつれて動かなくなるまで、走り続けることが出来た。
「オイ、忍足。向いのコートに入れ!」
いつものように跡部から声が掛かった。
跡部景吾。自分と同級のテニスプレーヤー。
氷帝きっての実力の持ち主。
自分と同じ一年なのにすでに正レギュラー間違いなしと言われている。誰もがこの跡部には一目置いていた。
「いくぞ!」
その声と共に容赦ない打球が、コートに打ち込まれる。
かろうじてラケットの端で拾うとすぐさま声が掛かる。
「気抜いてんじゃねえぞ」
「最初からえらい気合入っとるやん」
「当たり前だ」
跡部が何故、自分を指名するのか。答えは簡単。
自分以外、跡部の相手をできる奴がいなかったから。
そのせいで。
部活帰りは跡部と喋りながら校門の所まで歩くのが日課になっていた。
そのたった何分間が忍足にとって唯一楽しい時間となっていた。
校門の前には黒塗りの高級車が待っていた。
跡部が近寄ると、白い手袋をした運転手さんが降りて来てさっと後部のドアをあける。
跡部はそれに乗り込むと、窓ガラスを下ろして自分に手を振る。
まるでそれが合図のように、跡部を乗せた車は出発する。
「お金と名声があっても幸せな奴もおるもんやな」
憧れたのは純粋な愛。
そんなものが手に入るわけは無いと、わかっているのに。その存在さえ、自分が本当に信じているかもわからない。
侑士は逃げるように、実家を後にした。テニス特待を受けた氷帝に、特別行きたかった訳ではない。
とにかく息をするのも苦しい現実から逃れたかった。ただ、それだけだ。
侑士の家族は大学病院の教授を務める心臓外科ではゴットハンドと称えられている父と、売れっ子教育評論家の母。
それに、遠くイギリスに留学している優秀な姉と一人息子の自分。
一見すると、幸せを絵で描いたような家族。それと現実の狭間の中で、まだ幼い侑士の心は悲鳴を上げていた。
実際はどうかと言えば。
ほとんど浮気相手の所へ行ったまま家に帰らなくなった父。
その父にイラつく母。そのイライラの矛先を向けられた侑士は堪ったものではない。
いや、まだ八つ当たりされるのならマシだったかもしれない。
突然泣き叫んだかと思うと、狂ったように叫ぶ。「侑士だけは母さんを見捨てたりしないわよね。
侑士は母さんの味方よね。いい、侑士、あなたは父さんみたいになっては駄目よ」
いい加減にしてくれ。
世間一般では教育者として名高い母が。
まだ中学にすら上がっていない息子に、投げかける言葉とは到底思えなかった。
侑士は出来の良い息子を演じ続けること以外に術は無かったのだ。
本当は自分をさらけ出して、甘えたい年頃だったのに。
見た目だけでも、もう少し子供らしかったら、周りの目も違ったのかもしれない。
侑士は背も高く、与える雰囲気も到底十二歳とは思えなかった。
切れ長の涼しい瞳に、思慮深そうな綺麗な顔。落ち着いた物腰。
侑士を取り巻く大人達も侑士を一人前の大人として扱っていた。
残念だが、漆黒の瞳の奥に湛えた悲しみを、誰一人気づかなかった。
不幸なことはそれだけでは無かった。
母が頼んだ家庭教師は、女を武器にするタイプの人間だった。やたらと身体に触れてくる。
隠微な笑みを浮かべ、男はみんな自分の前にひれ伏すものだと思っている。
「侑士君は頭いいから、教えること何も無いわね」
頭を撫ぜる手が気持ち悪い。その日。その手が肩に掛かり、ぎゅっと引き寄せられた。
「もっと他の勉強してみる?」
媚を売るような目で覗き込まれて、全身に鳥肌が立った。女って汚い。
この女も。母も。真剣にそう思えた。
女の腕を振り払おうとした時。その手を掴れた。
真っ赤に塗られたマニキュアが、目の奥を刺激する。自分の手が。女の胸に押し当てられる。
吃驚して手を退けようすると、今度は女の唇が自分のそれに押し付けられた。
だらしなく開いた唇の隙間から女の舌が入って来る。
そのざらついた感触が嫌で、顔を背けて逃れようとすると、女は一旦唇を外し、艶を含んだ声で囁いた。
「可愛いのね、怖がることないから。侑士君を気持ち良くさせてあげる」
女の手がズボンの上から侑士の未熟なモノを弄ぶように触れた。
これまで一度も味わったことの無いような感覚が侑士を襲い始めた。
怖い。
女の腕から逃れようとするのに。
身体が硬直して動けない。なにか言おうとするのに、口はパクパクするだけで、音にならない。
そのうち気持ちとは反対に、訳のわからない感覚が下半身を支配し始めた。嫌だ。嫌だ。怖い。怖い。
身体を床の上に押し倒されて、女の柔らかい身体が覆いかぶさって来た。執拗に繰り返される口付け。
「…あ……ぁん」
女の口から喘ぎ声が漏れ始めた。あられもない姿態。知性も教養の欠片も感じられない声に。
侑士は胸の中に空気をいっぱい吸い込むと、腕に渾身の力を込め、女の身体を押し戻した。
「いややぁー」
思いがけない侑士の反撃に、あっけなく女の身体は弾き飛んだ。その拍子に机の角で打ったのか。
額から一筋赤い糸がすーっと流れ落ちた。
「痛ぁい。何すんの!」
悲鳴に近い声で喚く女の方を振り返ることもしないで、家から飛び出した。
侑士が家に戻ったのは、夜もかなり更けて来てからであった。
でも家にはもっと悲惨な事態が待っていた。
『バシッ!』
帰って来て母親の顔を見た途端に左頬を叩かれた。
「侑士、何て言うことをしてくれたの。母さんの立場もわからないの!貴方も父さんと同じだなんて」
頭をハンマーで殴られたような気がした。
聡明な侑士には、何が起きたのかをすぐに理解できた。
あの女が保身のために、自分を悪役にしたのだ。
侑士から、母親に真実を告げられる前に、侑士が女に手を出そうとしたと。おそらくそう言ったのだ。
それを何の疑問も持たずに信じた母。
息子よりもあの女を信じた。情けなくて。
思わず悲しい笑みが零れた。
そんな侑士の頬を母親はもう一度叩いた。
部屋に戻って来た侑士の顔からは、全ての表情が消えていた。
頭の中は空っぽで何も考えられなかった。
この広い世界の中で、自分を愛してくれる者など誰もいないと思った。
きっと愛など、どこにも存在しないと。
誰かがが作り上げた幻影に過ぎないと侑士は思った。
「忍足侑士です。よろしう」
一人で東京にやって来た。簡単な引越しも全て一人で済ませた。
一人暮らしの新しい生活を、特別期待しているわけでもない。
でも、あの息苦しい空間の中から抜け出られたことだけは、忍足にとっては幸せだった。
テニス特待なので、当たり前だが部活はテニス。
それもここ氷帝の男子テニス部は全国区だ。
生半可なものでは無いと聞いている。おまけにアメリカナイズな実力主義なので、弱いものには容赦ないということだ。
試合に負ければ、即行レギュラー落ち。練習を強いられるわけではないのに。
練習をしない者がコートに立てるチャンスはない。
個人ごとの規定の練習を終えた者も誰一人、コートを後にする者はいなかった。
それが逆に忍足には都合が良かった。余計なことを考える時間が無い。
ただ黄色いボールを追ってコートの中を足がもつれて動かなくなるまで、走り続けることが出来た。
「オイ、忍足。向いのコートに入れ!」
いつものように跡部から声が掛かった。
跡部景吾。自分と同級のテニスプレーヤー。
氷帝きっての実力の持ち主。
自分と同じ一年なのにすでに正レギュラー間違いなしと言われている。誰もがこの跡部には一目置いていた。
「いくぞ!」
その声と共に容赦ない打球が、コートに打ち込まれる。
かろうじてラケットの端で拾うとすぐさま声が掛かる。
「気抜いてんじゃねえぞ」
「最初からえらい気合入っとるやん」
「当たり前だ」
跡部が何故、自分を指名するのか。答えは簡単。
自分以外、跡部の相手をできる奴がいなかったから。
そのせいで。
部活帰りは跡部と喋りながら校門の所まで歩くのが日課になっていた。
そのたった何分間が忍足にとって唯一楽しい時間となっていた。
校門の前には黒塗りの高級車が待っていた。
跡部が近寄ると、白い手袋をした運転手さんが降りて来てさっと後部のドアをあける。
跡部はそれに乗り込むと、窓ガラスを下ろして自分に手を振る。
まるでそれが合図のように、跡部を乗せた車は出発する。
「お金と名声があっても幸せな奴もおるもんやな」