純愛シンドローム
口を付いて出てきた自分の言葉に、忍足は苦笑いした。
もしかして自分から愛を奪っていったのは、お金と名声ではなかったのかと、ふと思った時があったのだ。
父も母も悪い人ではない。
二人ともお金と名声を守るために必死だっただけ。
きっとそれが二人にとって幸せの象徴だったのだと。
でも跡部は違った。
跡部財閥の御曹司で忍足とは比べられない程のお金も名声も持ち合わしている。
そして、それに引けを取らない愛情も。跡部には与えられていた。一度だけ跡部の家へ行ったことがある。
そろそろ黒塗りの乗用車の送り迎えを止めて欲しいと言った跡部に。
それだけは我慢して欲しいと言っていたご両親の優しい眼差しが忘れられなかった。
理由はこうだ。跡部が幼い時、跡部の御曹司という事で誘拐されかけたことがあったらしい。
そんな目に息子を二度と合わせたくないと言うのが理由らしい。
傍目で見れば、贅沢極まりない行為もご両親の
掛け替えない一人息子に対する愛情なのだ。
それも跡部はちゃんと理解していた。
自分には無い愛という神聖な物も跡部は知っている。
……たぶん、自分はもう誰も愛せない。
サラサラで風に靡く長めの黒髪。長身で細身。切れ長な瞳はどこか悲しげで。
そんな忍足が女の子に人気が無いわけは無かった。
気付いていないのは本人だけで、氷帝でも跡部と人気を二分する存在になっていた。
そんな忍足を女の子がほっとく訳は無い。
「・・・あの忍足君。メアド交換して下さい」
「ごめん、俺。メール苦手やねん。部活の連絡に使うくらいやし。もろても返信できへんかったら悪いから」
いつも当たり障りのないように、返事をする。
「侑士もてるのに、彼女作らねぇんだな。お前も跡部と一緒かよ。もったいねぇな。さっきの子、可愛いかったじゃん」
同じクラスで同じテニス部。目立つのは真っ赤なおかっぱ頭の向日岳人。
見た目よりずっと、男っ気が強くて気さくで、いい奴だ。
「まだ中学生やで、勉強と部活でせいいっぱいや。女の子の世話までようやかんよ」
笑いながらそう言ってごまかした。まさか、女なんて傍に来ただけで吐き気がすると言ったら、なんと言われるだろう。
「侑士って見た目より、ずっと真面目なんだ」
くっくっと岳人から笑われた。
「いったい、俺はどんな風に見えるんや」
「クールで、ゆうしじゃ無くて、タラシ」
「はっ?なんやて」
面白い意見に、微笑を浮かべながら問う。
「だって忍足かっこいいCぃ、クールな大人って感じだもん」
横から口を挟んで来たのは、跡部の幼馴染でもあるテニス部のムードメーカー芥川慈郎。
「俺はクールでもタラシでも無いで」
そう言って、笑ったら。慈郎が……
突然、背中にしがみ付いて来た。瞬間。その身体を跳ね除けてしまった。
一瞬でその場の空気を凍てつかせた。おそらく今まで、誰にも見せたこと無い恐怖に引き攣った顔をしていたに違いない。
「ごめん、ジロー。突然でびっくりしてしもうた」
「……あ、うん。俺もごめん」
謝るのは自分で慈郎やない。わかっているがそれ以上何も言えなかった。
あの時から。間近にあの女の吐息を感じてから。
他人から身体を触れられるのが駄目になった。
たとえ、女でなくても。
スキンシップなどという言葉は忍足のカテゴリーの中から消えてしまった。
でも、ここへやって来てからは、テニス部の仲間に打ち解け合ううちに、少しずつではあるが善処できるのではないかと思っていたのに。
身体は忘れていなかった。あの不快感を。
「てめえら、何してんだ。もう練習始まってんだろ」
いつ部室にやって来たのだろう。跡部の声に我に返った。
「ハイハイ、行こうぜ」
そう岳人が言って、慈郎と一緒に先に部室から出て行った。
「オイ、忍足。どうしたんだ。顔色悪いぜ」
「……どうもせんよ」
「ならいいが、お前は少し休んでから来い」
「えっ?」
「いいから、そうしろ」
「……跡部」
新しいタオルを手に取ると、ドアの所に向かう跡部が不意に立ち止まり、振り向いた。
「何か言いたい事があれば、聞いてやるからいつでも言え」
一言、そう言い置くと跡部は部室から出て行った。
全身から力が抜けて行く様だった。
部室の角にあるベンチの上に忍足はへなへなと座り込んでしまった。
跡部には自分の心の中にあるドロドロした汚れた記憶を、見抜かれているのではないかと思った。
愛された記憶が無いから。だから、愛せない?
愛ってどんなもの?
綺麗なもの?だったら、やはり自分には遠いもの。
愛を与えられず、愛を与えることもできない。
どんなに手を伸ばしても、届かないもの。
どんなに欲しくても、決して自分に愛は無い。
名付けられた病名は純愛シンドローム。
「忍足君」
二階の踊り場にいるところを不意に声を掛けられて振り向くと、隣のクラスの岳人が綺麗だと言っていた女の子が立っていた。
「なん?」
「これ」
手には可愛い花柄の封筒が握られていた。状況からしてラブレターだと誰もが思うだろう。
最近直接手紙を渡すような殊勝な女の子など見たことは無いが。
忍足がメアドをテニス部の仲間以外に教えていないという事実から考えてみると、そういう手段に訴えてきても不思議ではなかった。
「俺に?」
一応確かめる。直接渡せなくて、お目当ての人物の友人に頼むということもあり得るし。
「忍足君に」
困ったと思った。女の子と付き合うことなどあり得ないし。受け取る理由も無い。
普段なら誰かテニス部の仲間が一緒にいるから、上手く取り繕ってくれただろうに。
忍足が困っているのがわかったのか。
「読んでもらうだけでいいですから」
そう言って手紙を渡すために、忍足の方へ一歩近づいて来た。
その時、風が。あの女の匂いを連れて来た。あの女と同じ香水の匂い。
一瞬にして、忘れかけていた記憶が蘇った。怖い。近づかんで。お願いやから。
引き攣った顔で、そのまま後に後退る。
あっ、と思った時は遅かった。自分が階段のすぐ脇に立っていたことを忘れていた。
足は宙を踏み、バランスを失った。
「キャー」
びっくりした女の子が悲鳴をあげる。
「忍足!」
跡部の声を聞いたような気がした。
ふわりと浮き上がった身体を抱え込まれた。
凄い音がしたと思ったら、皆に取り囲まれていた。
あっという間に下まで転がり落ちたらしい。でもどこも痛くないし、怪我をした様子も無い。
「大丈夫か?忍足」
心配そうな跡部の顔が、自分を覗き込んでいた。
「……跡部。大丈夫かって。跡部の方が大丈夫なん」
階段を踏み外した自分を跡部が庇って。一緒に落ちた。
跡部のお陰で自分はなんとも無い。
「俺は大丈夫だ。これでも運動神経だけはいいからな」
「……でも跡部、手から血が出とるやん」
どうして跡部は自分を庇ったりするんや。自分なんて跡部から庇われる価値も無い人間なのに。
そう思うと、自然と目頭が熱くなって来た。
「なんて顔してんだ。これぐらいなんともない」
「だって、跡部が俺の為に……」
「俺は大丈夫だって言ってるだろうが。お前は歩けるか?」
「うん」
「今日はもう家に帰れ。俺が送って行く」
有無を言わせない跡部の強い語調に黙って頷く。