忘却の徒
沖田は酒が大好きだ。
酒のためにならアスファルトに咲く花のようにだってなれる。と真顔でいうと、分別のあるようなないようなまわりの年長者たちは、呆れた顔をする。でも彼らの意向など、一向に意に介さない。質はいいから量はないとなァ、なんてしれしれと思っている。
鬼嫁でも紅桜でも、もっと高くていいやつでも、たらふく飲めさえすれば本当はなんでもいいのだ。味覚がいいほうではない。どうせ最初の一杯だけが勝負どころだ。
猪口に銚子を添えて舐めるように飲むのはまどろっこしいから、たいがいコップを持ち出す。何のへんてつもない、底も側面もつるっとしたコップを台所場からひとつ失敬してくる。
一度、凝った切子細工が施された薄紫の足つきグラスを酔った拍子に放り投げて割り、大変な目にあったのだ。ちなみにグラスは、意外な収集癖のあった土方の部屋から見目が気に入って勝手に拝借してきたものだった。
何のへんてつもないグラスで飲む酒は、なぜかほとんど味がしない。水のように喉ごしよく、するすると胃へおちる。五臓六腑にしみこむような、とよくいうが、あれは嘘だなと思っている。
むかし宵の縁側で、それはそれは粋に酒を飲む男の姿をみた。
彼は漆塗りの猪口に安酒をたたえて、どんな天候でも空を仰いだ。雨天には濡れた大気の気配を、晴天には月明かりを、雪が降れば清浄なつめたさを一緒に杯で干すのだといった。
あの飲み方をすればあるいは酒に味がつくのかもしれないが、そこまで情緒深く酒を飲むことは、なかなかどうして難しい。味のついた酒などというのも、どうということのないもののように沖田には思える。
さてあれは誰だっただろう。沖田は首を傾げた。
記憶力はあまりよくないのだ。腕は異様にたつが、頭はまるでから、などとよく言われる。だが、別段腹はたたない。からっぽは、都合がいいのだ。かるいならそのぶん、疾く的確に動けるではないか。
沖田は確かに、剣の腕が天才的に長けている。鬼のように強い。その要素には単純な技巧駆け引きだけではなく、ちからが拮抗しても髪先一寸のところで相手に競り勝てるなにかがふくまれている。信念だ気概だという者もおれば、運だという者もいる。
外野に何を言われても、沖田は笑って肩をすくめるばかりだ。理由など知らない。でもそれがからっぽのぶんだとすれば、かるい頭もあながち悪くない。
そんなことを思いながら、水のような酒をおいしく飲む。
そっけないグラスを畳の上にちょこんと置いて、機嫌よく鼻歌まじりに、抱えた一升瓶を取り上げられるまでそうしている。
雨の日には雨見酒、晴れの日には月見酒、雪がふったら雪見酒。童謡のようにふしをつけてくちずさむ。たいがい寝そべっているので、空はあまり見えない。
そういえば縁側の男は空こそ眺めたが、鼻先に広がる濃い闇にはあまり目を向けなかった。会いたくない客人が来ると嫌なのだと、庭も垣根向こうもほとんど見なかった。
むかしは、玄関でもないところから来る客人というものを不思議に思ったものだ。今はわかるようになった。
客人はいまや、沖田の元へも時折やってくる。ふと気がつくと、樹木の濃い影にまぎれて庭の隅にたたずんでいたりする。沖田は酒気を帯びてぐにゃぐにゃと眠たくなる頭の片隅で、どうもこんばんわ、と呟いてみる。返事はない。
そのうち猛烈に睡魔が襲ってきて、自分のからだもグラスも畳の上へ放り捨てたまま、ぐうぐう眠ってしまう。
いつも薄い寝巻き一枚、そのうえ戸を開けっ放しで意識を飛ばしてしまうので具合が悪くなるかと思いきや、朝になるとなぜかきちんと自室の布団の中にいる。すばらしい帰巣本能、と沖田は自分で自分を褒め称える。
そうして一応隊服に着替えて朝食をとってから、愛用のアイマスクを着用してまた昼寝にいそしむ。
寝酒をしながら落ちてしまった翌日は、昼間も眠たい。だからうるさい副長が仕事を持ってくるまでは、ずっと眠っている。天気がよければ障子越しの日差しが心地よく、天下泰平だ。
通りがかった土方が不機嫌な声で「お前、爪の間に血が残ってるぞ、洗ってこい」などというが、聞こえないふりをしてしまう。そんな些細なことで、せっかくの睡眠を邪魔しないでほしいと思うのだ。
何事も滞りなく始まっておわり、陽光はこうしてひだまりを作っているのだから。手を洗うのなど、あとでもいいはずだ。
まどろむ沖田の夢には、数時間前の剣戟も、刃先から跳ねて柄を握る指へつたってきた他人の血のあたたかさも出てこない。眠りは深い。
酒のためにならアスファルトに咲く花のようにだってなれる。と真顔でいうと、分別のあるようなないようなまわりの年長者たちは、呆れた顔をする。でも彼らの意向など、一向に意に介さない。質はいいから量はないとなァ、なんてしれしれと思っている。
鬼嫁でも紅桜でも、もっと高くていいやつでも、たらふく飲めさえすれば本当はなんでもいいのだ。味覚がいいほうではない。どうせ最初の一杯だけが勝負どころだ。
猪口に銚子を添えて舐めるように飲むのはまどろっこしいから、たいがいコップを持ち出す。何のへんてつもない、底も側面もつるっとしたコップを台所場からひとつ失敬してくる。
一度、凝った切子細工が施された薄紫の足つきグラスを酔った拍子に放り投げて割り、大変な目にあったのだ。ちなみにグラスは、意外な収集癖のあった土方の部屋から見目が気に入って勝手に拝借してきたものだった。
何のへんてつもないグラスで飲む酒は、なぜかほとんど味がしない。水のように喉ごしよく、するすると胃へおちる。五臓六腑にしみこむような、とよくいうが、あれは嘘だなと思っている。
むかし宵の縁側で、それはそれは粋に酒を飲む男の姿をみた。
彼は漆塗りの猪口に安酒をたたえて、どんな天候でも空を仰いだ。雨天には濡れた大気の気配を、晴天には月明かりを、雪が降れば清浄なつめたさを一緒に杯で干すのだといった。
あの飲み方をすればあるいは酒に味がつくのかもしれないが、そこまで情緒深く酒を飲むことは、なかなかどうして難しい。味のついた酒などというのも、どうということのないもののように沖田には思える。
さてあれは誰だっただろう。沖田は首を傾げた。
記憶力はあまりよくないのだ。腕は異様にたつが、頭はまるでから、などとよく言われる。だが、別段腹はたたない。からっぽは、都合がいいのだ。かるいならそのぶん、疾く的確に動けるではないか。
沖田は確かに、剣の腕が天才的に長けている。鬼のように強い。その要素には単純な技巧駆け引きだけではなく、ちからが拮抗しても髪先一寸のところで相手に競り勝てるなにかがふくまれている。信念だ気概だという者もおれば、運だという者もいる。
外野に何を言われても、沖田は笑って肩をすくめるばかりだ。理由など知らない。でもそれがからっぽのぶんだとすれば、かるい頭もあながち悪くない。
そんなことを思いながら、水のような酒をおいしく飲む。
そっけないグラスを畳の上にちょこんと置いて、機嫌よく鼻歌まじりに、抱えた一升瓶を取り上げられるまでそうしている。
雨の日には雨見酒、晴れの日には月見酒、雪がふったら雪見酒。童謡のようにふしをつけてくちずさむ。たいがい寝そべっているので、空はあまり見えない。
そういえば縁側の男は空こそ眺めたが、鼻先に広がる濃い闇にはあまり目を向けなかった。会いたくない客人が来ると嫌なのだと、庭も垣根向こうもほとんど見なかった。
むかしは、玄関でもないところから来る客人というものを不思議に思ったものだ。今はわかるようになった。
客人はいまや、沖田の元へも時折やってくる。ふと気がつくと、樹木の濃い影にまぎれて庭の隅にたたずんでいたりする。沖田は酒気を帯びてぐにゃぐにゃと眠たくなる頭の片隅で、どうもこんばんわ、と呟いてみる。返事はない。
そのうち猛烈に睡魔が襲ってきて、自分のからだもグラスも畳の上へ放り捨てたまま、ぐうぐう眠ってしまう。
いつも薄い寝巻き一枚、そのうえ戸を開けっ放しで意識を飛ばしてしまうので具合が悪くなるかと思いきや、朝になるとなぜかきちんと自室の布団の中にいる。すばらしい帰巣本能、と沖田は自分で自分を褒め称える。
そうして一応隊服に着替えて朝食をとってから、愛用のアイマスクを着用してまた昼寝にいそしむ。
寝酒をしながら落ちてしまった翌日は、昼間も眠たい。だからうるさい副長が仕事を持ってくるまでは、ずっと眠っている。天気がよければ障子越しの日差しが心地よく、天下泰平だ。
通りがかった土方が不機嫌な声で「お前、爪の間に血が残ってるぞ、洗ってこい」などというが、聞こえないふりをしてしまう。そんな些細なことで、せっかくの睡眠を邪魔しないでほしいと思うのだ。
何事も滞りなく始まっておわり、陽光はこうしてひだまりを作っているのだから。手を洗うのなど、あとでもいいはずだ。
まどろむ沖田の夢には、数時間前の剣戟も、刃先から跳ねて柄を握る指へつたってきた他人の血のあたたかさも出てこない。眠りは深い。