忘却の徒
夜半から降りはじめた雨の音が、しずかに座敷を濡らしていた。
朝が早い隊士たちは、夜床につくのも早い。動員も宴会もない晩は、大所帯がうそのように屯所内は黙する。
畳の上に手枕でだらしなく寝転んだ沖田は、部屋を暗くしたままテレビを眺めていた。最近張り替えたばかりの真新しい畳は、けばだちがなく、すべすべしている。顔を近づけるとかすかにいぐさの匂いがした。
ふすまを開け放したすぐうしろの続き間にはしずかな夜にふさわしく、上気分でゆるゆると酒を酌み交わす大人たちの姿がある。雨が降りはじめてからもう半刻はたつが、ただよう酒気に負けて独特の湿った匂いはほとんど感じられない。
いい塩梅に温まった徳利から注がれる魅惑の液体は、上等のものだ。近藤の秘蔵だ。祝い事のときに開けるたぐいの上等さではなく、気心の知れた者とすこしだけ嗜みたいときの、喉にやさしいまろやかな日本酒だ。
沖田が相伴にあずかろうと素焼きの猪口に伸ばした手は、目的物までは届かなかった。瞳孔のひらいた副長が、もう少しで指が触れそうだった猪口を遠ざけていうのだ。
「お前は寝る前に飲むな。だいたい、夜更けに酒盛りなんて十年早え。祭事のときだけでじゅうぶんだ。近藤さんも、あんまり甘やかすんじゃねえぞ」
つい数日前、やはりこのふたりの会合と称した酒盛りにまぎれて、沖田はすいすい銚子を干した。猪口では物足りなくて、こぶりの湯のみを持ち出してきた沖田に近藤が機嫌よくあけたのは、口当たりがよく、あまい酒だった。
飲み始めると、もうとまらない。ざるではないが、気の済むまで飲めるったけ飲んで、気持ちが悪くなったら吐いてリセットすればいい。そういう無謀な飲み方を、沖田は宴会のたびにけろりと実践していた。まつりごとの際の飲み会などは無礼講なので、吐いた、廊下に転がって意識を失った、程度では誰も咎められない。
ところが、先日はタイミングが悪かった。口当たりのよさに騙されて相当量を飲み、あ、飲みすぎた、気分が悪い、と思ったときにはもう遅かった。立ち上がって外まで吐きに行くこともままならなくなっていた。沖田が青い顔で座り込んでいると、むかいに座っていた土方は顔をしかめた。
おいおい、おまえ真っ青じゃねえか。大丈夫かよ。
このせりふに続く行動がどうして、背をさする、ではなく、勢いをつけて叩く、なのかまったく理解しかねる。そんなの、吐いても仕方がないではないか。真正面から背を叩いた土方の膝の上へ、派手に。
惨状であった。主に、土方のほうが。
あれは不可抗力であったと沖田は信じているが、土方はそうは思わなかったようだ。
以降、彼の目の届くところで杯に手を伸ばそうものなら、ぴしゃりと阻止される。当分はこれが続くのだろう。
あんまり不愉快なので、またひとつ藁人形をつくって丑の刻参りでも……と思っていたのだが、雨天に労力を割くのが面倒になってやめた。こういう日には、ごろごろしながらテレビでも見ているほうがずっといい。
暗い部屋に煌々と浮かびあがる画面では、赤い着物姿の女が恐怖に震える演技で部屋へすべり込み、内から鍵を掛けたところだった。丑の刻参りに行きそこねた腹いせに見始めた心霊もののホラーシネマなのだが、筋書きも演出も三流だ。
「総悟ぉ―、テレビを見るときは、部屋の灯りをつけろー、目が悪くなるぞーコラ、だってよー」
うしろから、酒の入った近藤が説得力のない陽気さで声をはりあげた。
「ホラーもの見るときは、こうじゃないと雰囲気出ないんでさァ」
沖田は寝転んだまま言い返す。シネマには八割方飽きていた。伝言形でなければ、立ち上がって灯りをつけにいったかもしれなかった。
「おいおい、総悟が反抗期だよー、反抗期ですよ、トシくん」
「放っとけ。注意はしたんだから、視力が落ちんのは本人の勝手だろ」
「馬鹿、お前がそういう言い方すっから、あいつが尖るんじゃねぇか。カリカリしないで、一杯ぐらい飲ましてやりゃあいいんだよ。死ぬもんじゃなし。総悟、テレビ消してこっちきな」
総悟、総悟、と酔っ払った父親が息子を呼ぶように近藤が騒ぐので、沖田は仕方なく立ち上がった。
テレビを消そうとリモコンを手に取ったときに、視線を感じた。庭のほうだ。
そとと縁側に面した戸はぴったりと締め切られている。誰もいない。
消されなかったテレビの中、女優が、音割れしそうなほど高い声で鋭く悲鳴をあげる。結い崩れた黒髪を振り乱すさまが、やけに芝居がかっていた。
なんてつまらねぇ番組見てやがる、と土方が嫌そうに呟いた。彼はホラー番組をことさらに嫌う。本当は、こわがりだからだ。
沖田は障子へ寄り、それを引いて廊下へ出た。そして闇へ沈んだ庭に目をむけた。 ここから見える中庭は、暗くなると樹木や置石の輪郭だけが茫洋と浮かびあがる。
風のない夜に暗がりの一点を凝視していると、物の影は濃くなる。もっと根を詰めて見ると、闇が固まってひとがたのように見えてくることを沖田は知っている。
まるで誰かがいるようだが、誰がいるわけでもない。ただ、視線や気配が澱のように黒く溜まっている。それをふと感じることがある。
「おーい、総悟くーん、何みてんのー! 外に何か見えんの?」
リモコンを握り締めたまま外を眺め始めた沖田に、痺れを切らした近藤が呼びかけた。
「客人でさァ」
意識せずにそうつるりと口から出てしまって、ああまずかったかな、と沖田は思った。案の定近藤は、酔いの覚めた顔で目をむいた。
「なにぃ、客だと?!」
刀の柄に手をかけ、ほとんど鞘から抜こうとしながら、傍らへ駆け寄った近藤が外をのぞきこんだ。音もなく立ち上がった土方も、そばの差料をつかみ、鯉口を切りかけている。
「どこにいるんだよ」
油断なく暗がりを隅々まで見渡しても、何も出てくるはずはない。庭には穏やかな雨音だけがしたたり、草葉を揺らす虫の影すら見えなかった。不審そうに庭を睨み渡す近藤に、沖田はなるべく気の抜けた声でこたえた。
「たぶん、野良猫かなんかが迷い込んで、突っ走ってったんだと思いやす」
「なんだよお前、客人だなんてヘンな言い方するから、得体の知れない奴が忍んできたかと思っただろうが」
「まァ、それならそれで、なかなか遊び甲斐が」
「ねえよ! 嫌だぜ、こんな呆けたみてえな雨の夜にどんぱちなんて、酒がまずくなるよ」
「そうですかィ」
沖田は、雨でけぶる闇のなかにぼんやりとかたちを成し始める客から目を離さないまま、やはり近藤にはみえないのだなあと納得する。
みえないほうが正しいのだということを、なんとなく知っていた。いつだって馬鹿をみるほど正しい近藤のことが、沖田は好きだ。
「ま、事がでかくなくて、めでたしってところだな。酔いも覚めたし、飲みなおしといくか。総悟もきな。ゲロ吐かない程度だったら、飲んでもいいってよ」
勝手にそう決めてしまうと、近藤は豪快に笑って沖田の頭を掻き混ぜた。力加減がわるいから、いつだって撫ぜる、と掻き混ぜる、の区別がつかない。
そうして、細い髪が絡まりあい寝起き以上に逆立っている頭の沖田を残して、ちょっと厠と席を外してしまった。