merrymerry-go-round
家族連れが帰路につき始めた夕暮れ時の観覧車は人気がなかった。どこからともなくまばらに集まり、下りてくるゴンドラの中に吸い込まれていく幽霊じみたカップルたちにまぎれて、風丸たちはほとんど機械的に上へ送り出される。
係員のすすけた笑顔が扉の閉まるガチャンという重い音で遮られると、諦めがついていっそ気楽になった。気力を削がれきった風丸は、無言で窓のそとを見下ろす。景色がどんどん遠ざかり、視界の中でちいさなミニチュアになっていく。
向かいに座ったヒロトは窓ガラスに額を寄せて、熱心に目を凝らしていた。三分の二ほど上ったところで、ガラスを指の背で叩き、呼びかけてくる。
「ほら、見て。あそこに稲妻町の鉄塔が見える。あれでしょう。違う?」
反射的に顔を上げ、遠目で眺めた鉄塔に街のシンボルマークをとらえた瞬間に、風丸は凍りついた。いくら懐かしくてもそれはそれなりの年月が過ぎたことへの感傷だと思っていたのに、胸をよぎった感情は、それほど甘くもなまやさしくもなかった。
当時のことでとりわけ鮮明に思い出すのは、自分が特訓へ参加してからの日々よりも、もっと前のことだ。弱小サッカー部に所属して、日が暮れるまで飽きもせず、木の枝に吊ったタイヤにぶつかっていく円堂を端から見ていた頃のこと。毎日よくやるなぁ……と、思っていた。あきれと賞賛と、その折れないひたむきさへのかすかな嫉妬をこめて。
「懐かしい? 俺はあの場所で特訓したことはないけれど、話しにはよく聞いたよ。ここから全部が始まったんだって、守はよく言ってた。いいな、そういうの。そういうものが共有できることは、貴重だ。うらやましい」
うらやましいと告げるヒロトの声は、言葉通りの重さで、どろどろしたものをまったく含まない。そういうときに風丸はふっと風が吹きぬけたような心地になり、自分の物差しでヒロトを判断することをためらう。その理性は、長くは続かないのだけれど。
「ねえ。俺、やっぱり、守の愛人になれるように努力してみようかなぁ。見てるだけでもよかったけれど、今日君に会って、そういうのもありだなぁっていう気がしてきた。別に横から取るわけじゃあないしね、愛人ならいいだろう? きっとすごく楽しいよ。だから風丸くんも一緒に頑張ろうよ」
ゴンドラが頂上を過ぎるとヒロトは正面に向き直り、いかにも名案だと言わんばかりに顔を輝かせてそう言った。冗談とも本気ともつかないきらきらした目をしている。風丸は今度は驚かず、窓から差し込む夕日を吸い込み猫のように虹彩のくっきりしたその目をぼうっと見つめる。
ヒロトは思い詰めるときも、信じるときも、人を追いつめるときですらもいつでも迷いがなくて、そういうところが風丸には信じられなかった。その筋の通り方はいっそうらやましいような気もしたが、同時に底がなくて怖かった。そんなふうなやりかたでは、いつかどこかに足を踏み外してしまうと思っていた。
でも、ヒロトは意外にそれない。それが正しいかどうか、幸福か不幸かはともかくとして、己の中にある一本道からはどこにもそれない。それは、ある意味で安全なことのかもしれなかった。けしてバランスを持ち崩さないという意味で。
逆に、自分ばかりがどんどん脇道へそれていって、もうなんだか自分でもよくわからない場所に立っている、と風丸は思う。たとえば、この観覧車の上みたいな。
「そうだな、それも……、いいのかもしれないな」
気づけば、うつろな心持ちで、自分ではないような声がぼんやり相槌をうっていた。馬鹿なことを言っていると他人ごとのように自嘲する。でも本当に、そういうことを考えてしまいそうだ、とも思う。もうそこにしか辿り着かないだろうという静かな諦観と、肥大する渇望。
まるで、あの万能の石を手にしたときのようだった。でも、今度は止めてくれる人間はいない。何が正しくて何が間違っているか決めてくれる人も、導いてくれる人もいない。だからあのとき隠しもっていた、わずかな期待や甘えはもてない。本当に身ひとつ、ぎりぎりの綱渡りだ。
対等であろうとして心を砕いていたのに、ここまでいかに円堂に拠って立っていたか、風丸は思い知る。円堂が結婚して、自分は確かに傷ついているのだった。自覚するよりもずっと鋭利に、根深く、ずたぼろに傷ついている。それをヒロトのほうがきちんと知っているのは妙なことだと思う。
「ふふ、決まりだ。じゃあ、愛人同盟だよ」
ぱちんと手を打ったヒロトが、やおら立ち上がり身を乗り出した。重さの偏った客室がぐらりと傾ぐ。「危ない」と言おうとすると、膝の上にのしかかられて頬を両手で挟まれた。そのまま開きかけた口に唇をくっつけられ、風丸は息をのむ。ぎょっとしたが、突き飛ばそうとかそういう気はなぜか起こらなかった。乾いた温かい感触が忍び笑いを残して去っていくのを、驚くほど冷静に眺めている。
ああ、おかしいなぁ。こいつは、本当に、頭がおかしい。そう、しみじみ思った。でももう、そのことについて、まっとうにぞっとできるほどの現実味を失っている自分も、またいるのだった。
「まずは計画を立てないとね。手始めに、どうしよう。守を呼び出して、いきなりホテルに連れ込んじゃおうか。突発的すぎるぐらい突発的なほうがいいよね。考える暇は、無いに越したことがないもの……」
いつのまにか隣に移ってきて座っているヒロトの無邪気きわまりないさえずりを音楽のように聞きながら、風丸は少しずつ近くへ戻ってくる街並みを見下ろす。今だけは、せめてこの観覧車が下につくまでは、全部をこいつのせいにして馬鹿らしい夢想にひたっていよう、と思う。下へおりた後にどうなるにせよ、今は、ただそう思うのだ。
作品名:merrymerry-go-round 作家名:haru