猛獣の躾け方の話
ところ構わずひと目を憚らず、首輪を着けた自動喧嘩人形が8歳も年下の少年に抱きついたり抱き締めたり顔や首を舐めたり甘噛みしたりしている光景は、それだけで充分世間の迷惑なのだ。
当然そんなときには飼い主の『ダメですよ静雄さん』などという言葉はなんの効果も発揮していない。
周囲の目から見れば、ダメなのは静雄だけでなくそんな静雄を自由にさせている帝人も同様だ。『待て』が出来ない獣も問題だが、それをきちんと咎めない飼い主も同じぐらい問題なのだ。
静雄は少し考え込んで、結局答えが出ずに飼い主に訊ねた。
「どうすりゃいいんだ? 俺はどうすれば、『待て』が出来てるって思われるんだ?」
基本的に他人の目というものを気にしないように出来ている静雄だが、それが帝人の失点として周囲に受け取られるとなれば話は別だった。
可能な努力はなんでもするつもりで問い掛けたのだが、帝人も静雄同様に考え込んでから答えた。
「僕もネットで調べて犬の躾け方は確認したんですが、それをそのまま人間に適用するのはどうかと思いまして……」
「そうなのか?」
「はい。犬は飼い主の『待て』の声に反応して行動しますけれど、人間は言葉を理解して受け入れて考えることまでできる動物です。一々号令を掛けるのは、ちょっと違うでしょう? それじゃあ犬と一緒です」
「………」
正論だ。
静雄はまたもや考えて、今度は自分の意見を口にした。
「だよな。一々言われなきゃ『待て』もできねえようじゃ、犬と同じだよな。だったらいっそ、犬を飼う方が楽でいい」
納得して頷く静雄に、帝人は優しく言った。
「僕が飼いたいのは静雄さんだけですよ?」
「……俺が飼われてえのも、帝人だけだ」
その台詞を切欠に、ひとしきり過度なスキンシップを図った後、再び躾の話題に戻ったのは数分後のことだった。
こんなことを普段からひと目も憚らずにしている所為でトムに苦言を呈されたのだということに、ふたりとも気付いていなかった。
「――で、俺はどうすればいい? 首輪をしてるときは勿論だけどよ、してねえときもキレてねえ限りできるだけ言うとおりにするからよ」
「そう――ですね」
帝人は真剣に考えた。
昨夜ネットで犬の躾け方のサイトを熟読していたときと同じように、本気で真剣に考え込んだ。
なにしろ帝人はまだ未成年の少年で、静雄は立派な成人男性だ。お前には飼い主の資格はないと静雄の上司であるトムに断じられてしまえば反論の余地もない。きっと静雄も帝人に飼われることをやめてしまうだろう。
帝人は本当に本気で真剣に熟考を重ね、ようやく口を開いた。
視線はまっすぐに静雄の瞳を捕らえ、両手は拝むように胸の前で合わされている。
「……なにも言われなくても、食事の準備が全部整って、お皿がすべてテーブルの上に並べられてから、両手を合わせて『いただきます』と言うまでお箸を手に取らない……というのはどうでしょうか?」
静雄は帝人を見つめたまま動きを止めた。
帝人もまた両手を合わせたまま黙って静雄を見つめた。
数十秒後、静雄はこくりと頷いた。
「……なる程な。それなら、誰がどう見ても『待て』が出来てることになるよな?」
「……多分。田中さんもこれなら合格点をくれると思うんですが……」
「大丈夫だろ。わかった。これからは努力する」
ふたりとも真剣だ。
しかも残念なことに、ここは静雄のマンションで、ふたりだけしかいない。突っ込み要員は不在だ。
安心した帝人は表情を緩めて静雄の頭を撫でている。
静雄は静雄で、気持ち良さそうな表情で飼い主に頬ずりしている。
ある意味心温まる光景であり、また見ようによっては砂を吐きたくなる程甘ったるい情景であり、また見る人間によっては精神に激しいダメージを受ける傍迷惑な見物だった。
しかし幸いなことに、ここは静雄のマンションで、ふたりだけしかいない。邪魔な観客は不在だ。
静雄は短い黒髪に鼻先を埋めてシャンプーの香りを堪能していたが、不意に思いついたようにぼそりと呟いた。
「……てことは、『あーん』は無理ってことか……」
「え?」
聞き取れない程小さな声での呟きは、しかし息が掛かるぐらい近くにいる帝人の耳には届いたらしく、小首を傾げながら問い返してきた。
「なにか言いましたか?」
「いや?」
静雄は余計なことは喋らないように、目の前にある鼻をはむりと唇に挟んで、自らの口を封じた。