終わりと始まり
「一体何の話かは分からないが、俺が聞いたのは『死ぬ』とか何とか言っているところだけだ」
「そ、そう?」
じっと顔を見ると、今度は別に顔が赤くはならない。どうやら本当に聞いてはいなかったらしい。良かった、と内心で胸を撫で下ろしつつも、そのまま顔を見つめていたらあたしの方が顔が赤くなりそうだったので少し視線はぶれさせる。
ああ、もったいないな。久し振りに会えたのに、とは思うけど仕方ない。
「更に言うなら俺は確かに死んでいる。だから俺の方こそ君に聞きたい。何故君がここにいる?それとも君は俺が知る藤枝くんではなく、最初の藤枝あやかくんか」
「最初も何も、一乃谷くん、あたしの他にまで女誑し込んで押し倒してぶち込んでアンアン言わせてやがるのねーーーー!!ってえ、ま、まさかあたし死んでる!?」
一乃谷愁厳の顔が簡単に赤くなる。この手の話題には本当に弱い。
「そ、そういう誤解を招く言い回しは止めてくれないか。それ以前に君は元から――ー―」
死んでいて、その未練や残された力から生まれた存在だろうと続けて言いたいのは分かったけれど、思わず自分の体をパタパタはたいて確認してしまう。触れるし感覚もある。場所は学校で、空は綺麗な星空だ。何も変わってないように見える。ただ、その星空は現実の日本ではありえないくらいの星の量でプラネタリウムのような空だった。
現実には、ありえない空。
「確かに元々死んでるんだけど、あー、本当にあたし死んだんだ。うわ、すげー、満足したってそういう事か、ちょっとこっちでも能力残ってるか調べてみてー!手紙描くからちょっと読んでみて、とりあえず文面は『今すぐあたしのためにケーキを買ってきて食べさせたくなる』とか程度ならあーゆーおっけー?」
「―――どうやら、君は俺が知っている藤枝くんのようだ」
「うぇ!?」
一乃谷愁厳が苦笑交じりに微笑を零し、それを真正面から見たあたしは少し動転してしまう。少しと言うか、かなりだ。今生クリームがたっぷり乗ったパイを持ってたら上杉氏の顔に動揺のあまりパイを叩きつけてただろうってくらいに動揺した。(そもそも上杉氏は死んでないからここにはいないのだけれども)
希少価値の高い一乃谷愁厳の笑顔に動揺するのなんて今まで通りなんだけど、今回は違った。動揺の具合が半端じゃない。
な、何これ、何これ、何これーーーーー!!!!
一乃谷愁厳は今まで見た事もないような穏やかな顔をしていた。
全ての迷いも、憂いもない、澄み切った笑顔だ。そんな彼の微笑の破壊力はこれまでの当社比2.8倍(藤枝あやか調べ)ってくらいにやばい。
なんて顔で笑うのだろう。そんな穏やかな顔は始めて見た。そんな顔が出来たのか。出来たなら出し惜しみせずにもっと早くから見せてくれればよかったのに。
…ああ、そうか。
だから、彼が妹さんへの罪悪感を、償いを、全て現世で済ませたのだと分かる。彼の死は仕方がないものであり、妹さんは泣いていたけれどきっとこの先恋人と共に幸せに生きるに違いなくて。彼はそれが途方もなく嬉しいのだ。自分が死んでも妹が生きて幸せに、好きな人と共にいられる事が。
自己犠牲だなんて思いもしないその高潔さと妹に対する愛情を見せ付ける。
改めて、あたしは一乃谷愁厳がどれほどにいい男かを思い知ってしまったのだ。
ちくしょう、何度惚れ直させれば気が済みやがる。
自覚はなかったけれど、一乃谷愁厳が笑顔を少し眉を寄せた不可解そうな顔に変えたからきっとあたしの顔は尋常じゃなく赤いのだろう。どうせ、この男は何であたしの顔が赤いのかも気付かないのだろうけど。
ああ、でも。
―――あたしの時間もこれでようやく終わったんだ。
不思議な気分だ。
あたしは藤枝あやかではなくて、でも藤枝あやかそのものだ。文車妖妃としての力は藤枝あやかのもので、あたしのものじゃないけれど、あたしを構成する一部だ。だから、きっとこの感情も藤枝あやかのものでもある。
彼が二人で一人だったように、あたしは一人で二人で、でも結局は一人だ。
今こうして一人になってようやく分かる。あたしは、あたしだ。一乃谷愁厳を好きなのは、藤枝あやかだ。分けて考える必要なんてない。
心が澄み切って、さっきまで泣いてた顔を見られるのが恥ずかしいとかそんな考えはもう何処かへきてしまっている。清々しくて、この世界の全てが色鮮やかに見える。
ああ、何か文章が書きたい。今まで自由に文章を書いてきたけれど、それでも心のどこかで必ずこの力を意識して筆を鈍らせてた部分があった。人が読めば自分の力は容赦なく発動する。けど、今はもう何もない。文車妖妃の力が残っていても構わない、この世界の美しさを、文章にしたかった。
「藤枝くん、急に黙らないでくれないか」
「え、あ、ご、ごめん」
自分の顔が赤いのと同様に、何故か自分の顔を見る一乃谷愁厳の顔が今少しだけ赤いと思うのは目の錯覚なんだろうか。自分の願望が入っちゃってるのかもしれないけど、まあ、そんな事もどうでもいい事だ。
世界がとても綺麗で、星空の星は今にも落ちて来そうに沢山煌いている。
良かった。死後の世界と言うのか分からないけれど、こっちがこんなにも綺麗な世界で。
今まで全ての重圧を背負って、妹さんを守ってきた彼を迎えた世界が、素晴らしい世界で本当に良かった。
「一乃谷くん」
「何だ?」
律儀にあたしの呼びかけに答える声がやっぱり好きだなあ、と思う。だから自然と言葉は口をついて出る。
「―――お疲れ様」
今まで、本当に。
その声は何だか甘ったるくて、やっぱり何時もの自分ならのた打ち回っちゃって笑っちゃうような声だったけれど、まあ死んだ後くらいはいいだろう。それに今のあたしを見てるのは絶対にそんなあたしを笑うはずが無い一乃谷愁厳だけなんだから。
どうせ彼の事だから、兄としての当たり前の行動だとか、そんなねぎらわれるような事じゃないとか言うかもしれないけど、それでも言いたかった。
だから否定の言葉もドンと来いとか思ってたのにさ。
「君も、」
「え?」
「お疲れ様だったな」
なんて、そんな事を言いやがったのだ。
自分が生まれるより先に死んだ藤枝あやかの、未練としての力の残滓。
何時消えるかも分からない生をたった一人で、止められた時間の中でただ気がついたら何十年と過ぎていた生を。
一乃谷愁厳は哀れむのではなく、全うした事を労った。
「………ちくしょー」
思わず声が漏れた。顔は真っ赤なのはもうばればれだろうが、悪態が一乃谷愁厳に聞こえなかったのは目下の幸いともいえる。
なんだって、この男はこんなにいい男なんだ。そんなの惚れ直すに決まってるじゃないか。
ああ。もう。全くどうしてやろうか。
「…一乃谷くんは死んでも変わらないね」
そう言って、むう、と唸った一乃谷愁厳はやっぱり彼のままで、だからもう一言、言いたくなった。
言ってみようか。この死後の世界の狭間がいつまで続くのかも分からないけれども、今度は置いていかれないように。
誇るべき感情を、消し去らないように。
「あたし、一乃谷愁厳の事が好きみたいなんだけど」ってさ。
この、終わりと始まりの世界の中で。